
「この時代には何があったんだろう?」、「この時期にこの地方ではどういうことが起きていたんだろう?」。
そういった些細な疑問を解決したくてこのページを作ってみました。
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歴史データ
近代
明治時代
明治 9年(1876年)
3月28日
廃刀令とは、1876年(明治9年)に明治政府が出した法令で、士族(元武士)に対し、軍人や警察官などを除いて帯刀(刀を身につけること)を禁じた命令です。
これは、武士階級の特権を廃止し、身分に関係なく平等な社会をつくるという近代化政策の一環として行われたもので、江戸時代以来の「武士の象徴」である刀を公の場から消し去った、象徴的な改革です。
背景
- 明治維新による身分制度の改革
江戸時代:武士は「士農工商」の頂点に立ち、刀を差すこと(帯刀)は武士だけに許された特権でした。
明治維新後:四民平等が掲げられ、身分制度の撤廃・士族の特権廃止が進められていきました。 - 社会の近代化と治安維持
近代国家の建設を進める中で、「刀を持った特権階級」が存在することは、国内外から見ても時代遅れとされるように。
また、街中で刀を帯びた者がいることは、治安の悪化や反乱の懸念にもつながっていたため、武装の解除が必要とされました。
廃刀令の内容(正式名称)
- 正式には「帯刀禁止令」と呼ばれるもので、「軍人・警察官・役人を除き、一般の士族が公の場で刀を差すことを禁止」するという内容。
- 1876年3月28日に公布され、以降、市民社会から「刀」が姿を消していきました。
結果と影響
- 社会の平等化の一歩
武士階級の象徴を取り除いたことで、身分の違いによる外見的な差がなくなり、国民平等の意識が進む - 士族の不満の高まり
特権を次々と奪われた士族の間には不満が広がり、のちに西南戦争(1877年/西郷隆盛による反乱)などの士族反乱へとつながる一因となる - 近代的な治安制度の確立へ
刀のない社会の実現により、治安維持を武士の自衛ではなく、警察制度による管理へと移行
まとめ
廃刀令は、単なる「刀をやめさせた法律」ではなく、武士の時代に終止符を打ち、日本を近代的な平等社会・法治国家へと導く象徴的な改革でした。
刀が消えた街には、スーツを着た役人、商人、学生たちが現れ、明治という新時代の風景が形作られていったのです。
明治 10年(1877年)
2月
西南戦争は、1877年(明治10年)2月〜9月にかけて九州地方(主に熊本・宮崎・鹿児島)で起こった、
明治政府と旧士族勢力(特に鹿児島士族)との間で戦われた、日本最大かつ最後の士族反乱です。
この戦争は、近代国家へと向かう明治政府と、旧武士階級の「誇りと不満」が激突した内戦であり、
西郷隆盛(さいごう たかもり)が指導者として立ち上がったことで、広く国民の注目を集めました。
背景
士族の不満の蓄積
明治政府は、以下のような改革を次々に断行していきました:
- 廃藩置県(1871年):藩主と士族の権力喪失
- 徴兵令(1873年):武士に代わる国民軍の創設
- 廃刀令(1876年):士族の象徴である帯刀の禁止
- 秩禄処分(1876年):士族への生活手当(家禄)廃止
これらの改革により、多くの士族は経済的・社会的地位を一気に失い、強い不満を抱くようになります。
西郷隆盛の動き
西郷は政府を辞職し、故郷・鹿児島で私学校を開いて若者の教育に専念していました。
しかし、西郷の周囲には過激な士族が集まり、「政府に不満を持つ士族の拠点」として私学校は次第に反政府的色を強めていきます。
西南戦争の経過
- 1877年2月:西郷を支持する士族約1万3千人が武装蜂起し、熊本方面に進軍
- 熊本城の攻防戦:新政府軍と激しい攻防が続くも、政府の近代兵器と兵力の前に押される
- 田原坂の戦い(3月):激戦が続き、西郷軍は次第に劣勢に
- 戦線は宮崎・鹿児島方面へ後退:補給不足・兵力の差が致命的に
- 9月24日、西郷隆盛、鹿児島で自刃(じじん)
これにより反乱軍は完全に崩壊し、戦争終結
戦争の規模と被害
- 反乱軍:約30,000人、新政府軍:約70,000人以上が動員
- 死者・負傷者:両軍合わせて1万4千人以上
- 戦費:約4,200万円(当時の国家予算の半分以上)
意義と影響
- 士族による大規模反乱の終焉
→ 以後、士族の武力蜂起はなくなり、武士階級は歴史の表舞台から退場 - 近代国家への移行の完成
→ 徴兵制・官僚制・中央集権体制が確立し、近代軍による国家運営が本格化 - 国民意識の変化
→ 「政府=西郷を殺した悪」とする声もあったが、やがて西郷は「忠義の士」として再評価される
まとめ
西南戦争は、武士の誇りと時代の変化がぶつかり合った明治維新最後の内戦です。
西郷隆盛の死をもって、士族の時代は完全に終わり、日本は近代国家として一つにまとまり歩みを進めていきます。
明治 11年(1878年)
大阪商法会議所の設立とは、1878年(明治11年)に、近代日本における最初の商業者のための公的な経済団体として、大阪の実業家たちによって設立された機関のことです。
これは、明治政府による近代経済体制の構築と並行して、民間の経済人が自らの力で経済を発展させようとする自主的な経済活動の始まりを象徴する出来事です。
設立の背景
幕末から明治へ:商人の再評価
- 江戸時代には「士農工商」として商人は最下層とされていましたが、明治維新後は経済・産業の発展が国家の重要課題となり、商業の役割が急速に高まりました。
自由経済への転換と商人の自立
- 明治政府は、地租改正・貨幣制度整備・銀行制度の導入など、資本主義経済の土台を次々と整備していきました。
- しかし同時に、民間の商工業者たちも組織的に意見をまとめ、政府や地域経済に発信できる場が必要とされました。
中心人物:五代友厚(ごだい ともあつ)
大阪商法会議所の設立を主導したのは、実業家・政治家として知られる五代友厚です。
- 元薩摩藩士で、明治維新後は大阪経済の近代化に尽力
- 貿易・商業・教育・鉄道・新聞など幅広い分野で活躍
- 「大阪の恩人」「近代大阪経済の父」とも称される
彼のリーダーシップによって、当時の有力商人たちが協力し合い、大阪商法会議所が誕生しました。
大阪商法会議所の役割と特徴
- 商工業者の意見・要望を政府や自治体に届ける窓口
- 経済・法律・税制・通商などに関する調査・研究・提言
- 商取引の秩序維持と、商人どうしの調停・仲裁機能
- 国際貿易や産業振興に関する実務的な支援
このように、商法会議所は「経済人の自治組織」として、日本の経済近代化において重要な役割を果たしました。
意義と影響
- 日本初の商法会議所として、地域経済人の声を制度化
- 他地域でも商業会議所設立が進む(→後の日本商工会議所へと発展)
- 民間経済人が政策や制度に関与する道を開いた
- 現代の経済団体・商工会議所制度の原点
まとめ
大阪商法会議所の設立(1878年)は、民間の経済人が日本の近代経済を支える主体として動き出した画期的な出来事です。
五代友厚を中心とした商人たちのこの動きは、「お上頼り」の時代から、「自ら経済を動かす時代」への転換点となりました。
明治 12年(1879年)
明治 14年(1881年)
10月12日
国会開設の詔(みことのり)とは、明治天皇が1881年(明治14年)10月12日に発した、
「1890年(明治23年)までに国会を開設する」ことを国民に約束した公式な勅命(ちょくめい)です。
これは、日本が立憲君主制・議会政治へと歩み出す大きな一歩であり、
のちの大日本帝国憲法(1889年制定)および帝国議会(1890年開設)につながる重要な出来事です。
背景
自由民権運動の高まり
- 明治初期、政府は中央集権を急ぎ、政治は官僚と元藩士出身の指導者によって独占されていました。
- これに対して、板垣退助や植木枝盛らを中心に、「国民にも政治に参加させよ!」という自由民権運動が全国で拡大。
- 民間からは「憲法制定・議会開設」を求める声が高まり、政府への圧力となっていました。
明治十四年の政変
- 1881年、政府内部では大隈重信らが「早期に国会を開くべき」と主張。
- しかし、伊藤博文・岩倉具視らは「慎重に進めるべき」として対立。
- 結果、大隈は罷免され、政府は自由民権派を牽制しつつ、国会設立を“将来の確約”として明示する道を選んだのです。
詔の内容(要約)
「朕は、国民の志を体して、将来、立憲の政体を立て、十年以内に議会を開設することをここに明らかにする。」
つまり、1890年までに必ず憲法を制定し、議会(国会)を開くことを天皇自らが約束するという宣言でした。
意義と影響
- 明治政府が初めて国会制度導入を公式に約束
- 自由民権運動の成果として、政府を動かした歴史的な勝利
- 国会開設に向けた準備(憲法起草、選挙制度設計など)が本格化
- のちの大日本帝国憲法(1889)と帝国議会開設(1890)へと直結
まとめ
国会開設の詔(1881年)は、日本が専制的な中央集権国家から、憲法に基づく立憲国家・議会制民主主義へと進む第一歩でした。
これは、明治政府と国民の力がせめぎ合う中で生まれた“政治の転換点”とも言える出来事です。
明治 15年(1882年)
明治 17年(1884年)
10月31日
秩父事件(ちちぶじけん)は、明治17年(1884年)に現在の埼玉県秩父地方で起きた、日本最大規模の農民蜂起です。自由民権運動の最末期に発生した事件であり、経済的困窮と政治的影響が結びついた典型例として知られています。
秩父事件の背景
● 深刻な不況と重い負担
明治初期の政府は殖産興業や軍備拡張を進める一方、財政が逼迫し、
国税・地方税が非常に重く課されていました。
さらに秩父地方では
- 冷害による不作
- 商品作物(養蚕)価格の暴落
- 村人の借金増大
が重なり、生活は極端に苦しくなっていました。
借金の返済に追われ、家や土地を手放す農民も続出し、自治的な救済を求める声が高まりました。
自由民権運動との関係
当時全国で自由民権運動が盛り上がり、秩父でも困民党(こんみんとう) と呼ばれる団体が結成されました。
彼らは平和的な請願を重ねましたが状況は改善されず、次第に「実力行使」へ傾いていきます。
事件の経過
● 1884年10月31日
困民党の指導者たちが蜂起を決行。総勢は 約3,000~4,000人 にも達したとされています。
● 蜂起の目的
- 高利貸しの借金の帳消し
- 不公平な税制度の是正
- 農民救済の実現
彼らは役所などの公的施設を占拠し、一時的に秩父郡役所を支配しました。
● 政府軍との衝突
政府は騒動を鎮圧するため、
警察隊や軍隊(鎮台兵) を派遣します。
近代兵器を装備した軍隊を前に、農民側は数日で敗北しました。
蜂起からわずか数日で壊滅に追い込まれ、多くの参加者が逮捕・処罰されました。
事件の結果と意義
● 厳しい処罰
首謀者の一部は死刑、無期・長期懲役などの重い刑を受けました。
一般農民にも多数の投獄や罰金が課されました。
● 歴史的意義
秩父事件は、近代日本で最も大規模かつ組織的な民衆蜂起であり、農民の生活苦が極限に達していたことを物語っています。
また、自由民権運動の中でも経済問題、社会的不平等が政治的要求と結びついた点が特徴で、明治政府が抱えていた矛盾を象徴する事件とされています。
明治 18年(1885年)
12月22日
内閣制度創設(ないかくせいどそうせつ)とは、明治18年(1885年)に日本で近代的な内閣制度が導入され、太政官制が廃止されて「内閣」が誕生した出来事を指します。これは、日本の政治体制が近代国家へと転換するうえで極めて重要な改革でした。
背景:太政官制からの脱却
明治維新後、日本では律令制を基礎にした 太政官制 が続いていました。
しかし、太政官制は
- 職務分担が不明確
- 政務の最終責任者が曖昧
- 近代国家に必要な迅速な政策決定が難しい
といった問題があり、欧米型の「近代内閣」に適応できない仕組みでした。
さらに1880年代には大日本帝国憲法の制定作業 が進んでおり、憲法に対応した首相中心の新しい行政組織の整備が必要になりました。
内閣制度の創設(1885年)
- 太政官制の廃止
1885年12月22日、太政官制はついに廃止されました。 - 内閣制度の導入
これと同時に、各省の長である「国務大臣(大臣)」を統合し、その総責任者として「内閣総理大臣」を置く内閣制度 が始まりました。
初代内閣総理大臣には 伊藤博文 が就任し、近代国家としての行政の中心が誕生したのです。
制度の特徴
- 内閣総理大臣の設置
行政の中心人物として、各大臣を指揮・統率する役割を持つようになりました。 - 各省の独立性の明確化
各大臣は担当する省庁の行政を責任もって執行する立場となり、指揮系統が明確化しました。 - 欧米型近代国家への体制整備
ドイツ(プロイセン)を参考にしつつ、「国家の最高行政機関」としての内閣が確立されました。
意義
内閣制度創設は、日本が近代的な行政機構を整備し、中央集権的な国家運営を確立するための重要な改革でした。
また、この制度は翌年の大日本帝国憲法(1889年)制定→帝国議会の開設(1890年)へとつながる、近代政治の基盤となりました。
明治 19年(1886年)
明治 22年(1889年)
2月11日
大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)発布とは、明治22年(1889年)2月11日、明治政府が日本初の本格的な近代憲法を公布した出来事を指します。
この憲法は日本の立憲国家としての第一歩であり、明治維新後の国家体制づくりの集大成ともいわれます。
背景:近代国家づくりと憲法制定の必要性
明治政府は、西欧列強に対抗できる「近代国家」への改革を進めていました。
そのためには、
- 近代的な法制度
- 統一された国家の仕組み
- 国民に提示する国家の基本原則
が必要であり、憲法の制定は急務とされました。
とくに列強からの“不平等条約”を改正するため、「文明国であること」を示すためにも、憲法制定は不可欠でした。
憲法制定の中心人物:伊藤博文
憲法制定の中心にいたのは 伊藤博文です。
彼は欧州(主にドイツ=プロイセン)の憲法制度を調査し、天皇を中心とした立憲君主制に基づく日本的な憲法を構想しました。
大日本帝国憲法の発布(1889年2月11日)
1889年2月11日、紀元節の日に、天皇(明治天皇)が自らの名で憲法を発布しました。
帝国憲法は「欽定憲法(きんていけんぽう)」と呼ばれ、天皇が国民に与える形式をとっています。
大日本帝国憲法の主な内容・特徴
① 天皇主権
天皇は
- 軍の統帥権
- 外交権
- 法律の公布権
- 国会の召集・解散権
など、強い権限を持つとされました。
② 議会(帝国議会)の設置
翌年1890年に開かれる帝国議会の根拠となる規定が整えられました。
議会は
- 貴族院(皇族・華族など)
- 衆議院(選挙で選ばれる議員)
の二院制。
③ 国民の権利は「法律の範囲内」
言論・信教・集会などの自由が認められましたが、「法律の範囲内で」保障されるという制限がありました。
④ 内閣制度との関連
1885年に創設された近代的な内閣制度(内閣総理大臣+国務大臣)と一体となって、近代国家の政治構造が整いました。
歴史的意義
大日本帝国憲法の発布は、日本がアジアで最初に成文憲法を持つ近代国家となった象徴的な出来事でした。
またこの憲法は、1947年に日本国憲法が施行されるまで、約58年間、日本の政治の基本法であり続けました。
明治 27年(1894年)
日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)締結とは、明治32年(1899年)に日本とイギリスの間で結ばれた、新しい平等条約を指します。
この条約は、不平等条約の改正がついに実現し、日本が主権国家として国際社会に認められた大きな出来事でした。
背景:不平等条約の改正問題
幕末に結んだ「安政五カ国条約」には、
- 治外法権(領事裁判権)
- 関税自主権の欠如
など、日本にとって不利な規定が多く含まれていました。
明治政府は近代国家としての独立を確立するため、これらの不平等条約を改正することを最重要課題にしていました。
しかし、欧米列強はなかなか改正に応じず、日本は
- 裁判制度の近代化
- 法律の整備
- 行政改革
などを進め、信頼を高めていく必要がありました。
推進者:外務大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)
不平等条約の改正に本格的に成功したのは、外務大臣 陸奥宗光 です。
彼は欧米各国との交渉を進め、まず イギリスとの間で平等条約を結ぶことを大きな足がかりにしました。
イギリスは当時、東アジアの安定と日本の近代化を評価しており、条約改正に最も前向きだった国でした。
日英通商航海条約の締結(1894年)
1894年7月、ロンドンで日本とイギリスが条約に調印
この条約の内容は次の通りです。
- 治外法権(領事裁判権)の撤廃
イギリス人が日本国内で犯罪を犯した場合、日本の裁判所で裁けるようになりました。
これは不平等条約改正の最重要項目です。 - 関税自主権の一部回復
完全ではないものの、日本が関税をある程度独自に決められるようになりました。 - 条約は1899年に発効
締結は1894年ですが、実際に施行されたのは 明治32年(1899) です。
この年、日本は完全に近代国家として“対等な地位”を獲得しました。
歴史的意義
日英通商航海条約は、日本が欧米列強と対等な関係を結んだ最初の完全な改正条約でした。
これによって
- 不平等条約の撤廃
- 日本の主権回復
- 国際的信用の向上
- さらなる条約改正(米・独・仏など)への連鎖
が進みました。
とくにイギリスという大国が最初に日本を評価し、条約改正に踏み切ったことは極めて大きな意味がありました。
日清戦争(にっしんせんそう)は、明治27年(1894年)から明治28年(1895年)にかけて、日本と清(しん:中国の清朝)との間で起こった戦争です。
主な争点は 朝鮮半島の主導権 をめぐる対立でした。
この戦争を通じて、日本は近代国家として国際社会に強い影響力を持つようになります。
背景:朝鮮問題をめぐる緊張
19世紀後半、朝鮮は伝統的に清の影響下にありましたが、内部では改革派と保守派の対立が続いていました。
● 日本と清の対立の深刻化
- 日本は明治維新後、朝鮮を独立させて近代化させたいと考えた
- 清は伝統的支配権を維持しようとした
この対立の中で、東学党の乱(1894) という朝鮮国内の反乱が発生し、反乱鎮圧のため日本と清が同時に軍を派遣したことから緊張が一気に高まります。
戦争の経過
● 1894年、日本と清が交戦状態に突入
主な戦いは以下の通りです。
● 陸戦
- 成歓(ソンファン)の戦い
- 平壌の戦い
日本軍が朝鮮北部で勝利を重ねました。
● 海戦
- 黄海海戦(こうかいかいせん)
日本の連合艦隊が清国北洋艦隊を破り、日本海軍の近代化の成果が示されました。
● 遼東半島・台湾方面への進撃
日本は遼東半島を占領し、さらに台湾にも上陸しました。
下関条約(しものせきじょうやく)
1895年、日本と清の間で講和条約が結ばれました。
主な内容は以下の通りです。
- 朝鮮の完全独立を確認
- 遼東半島の割譲(のちに三国干渉で返還)
- 台湾・澎湖諸島の割譲
- 多額の賠償金(2億両=当時巨額)
- 通商の拡大
とくに「朝鮮の独立」は、清が朝鮮への支配権を正式に放棄する重大な決定でした。
戦争の結果と影響
- 日本の国際的地位が大幅に上昇
近代化に成功した日本は、列強から「アジアの強国」として認められました。 - 清の弱体化
清朝は軍事的・政治的な弱さを露呈し、のちの「列強による中国分割」の流れを強めることとなりました。 - 台湾の日本統治の始まり
台湾は日本の植民地となり、以後半世紀にわたり日本が統治することになります。 - 三国干渉による遼東半島返還
ロシア・フランス・ドイツが日本を牽制し、日本は遼東半島を返還することになります。
この「三国干渉」は日本に深い屈辱感を残し、のちの日露戦争の背景となりました。
まとめ
日清戦争は、朝鮮半島をめぐる日本と清の対立から起こった戦争で、日本は近代的軍隊の力を背景に勝利し、アジアで初めて列強に匹敵する存在となりました。
下関条約により朝鮮の独立が認められ、台湾が日本領となるなど、日本の国際的地位が大きく向上するきっかけとなりました。
明治 28年(1895年)
4月17日
下関条約(しものせきじょうやく)は、明治28年(1895年)4月17日、日清戦争の講和条約として日本と清(中国)との間で結ばれた条約です。
戦争に勝利した日本が大きな権益を得た一方、清にとっては国家の弱体化を象徴する重大な転換点となりました。
下関条約が結ばれた背景
1894〜95年の日清戦争で、日本は
- 陸戦(平壌・旅順など)
- 海戦(黄海海戦など)
で清軍を圧倒し、戦局を優位に進めました。
その結果、日本側が講和会談の主導権を握り、山口県下関市(春帆楼) で両国の交渉が行われました。
日本側全権:伊藤博文・陸奥宗光
清側全権:李鴻章・李経方
条約の主な内容
下関条約には、日本の勝利を反映した非常に重要な内容が盛り込まれています。
① 朝鮮の独立を清が承認
清は朝鮮に対する「宗主権(支配権)」を正式に放棄。
これによって朝鮮は名目上、独立国「大韓帝国」への道を歩むことになります。
② 領土の割譲
清は日本に以下の領土を割譲しました。
- 遼東半島(のちに三国干渉で返還)
- 台湾
- 澎湖(ほうこ)諸島
特に台湾割譲は日本にとって大きな成果であり、ここから日本の植民地統治が始まります。
③ 賠償金 2億両(テール)
当時としては極めて巨額で、日本の財政を大きく潤しました。
これにより、日本は軍備拡張や産業投資を一気に進めることになります。
④ 通商の拡大
日本は清国内の
- 沙市
- 重慶
- 蘇州
- 杭州
を開港・開市させ、商業活動の拡大を図りました。
■ 下関条約の影響
- 日本の列強入り
この条約で日本は 東アジアの強国 として国際社会から認められました。 - 清朝の弱体化と列強進出の加速
敗北した清は大きな権威を失い、各国の勢力争い(中国分割)が激化します。 - 三国干渉の発生(1895年)
ロシア・フランス・ドイツが「遼東半島を返還せよ」と日本に圧力をかけ、日本は遼東半島を清に戻すことになります。
この「三国干渉」は日本の国民に深い屈辱感を残し、のちの日露戦争の原因のひとつとなりました。 - 台湾の日本統治の開始
台湾は1945年までの50年間、日本の統治下に置かれました。
まとめ
下関条約は日本が日清戦争に勝利して結んだ講和条約で、朝鮮の独立承認、台湾・遼東半島の割譲、巨額の賠償金など、日本にとって大きな利益をもたらした条約です。
しかし同時に、三国干渉を招き、日本の対外政策がより積極化していく転換点ともなりました。
5月18日
明治 32年(1899年)
6月
明治 37年(1904年)
2月
日露戦争(にちろせんそう)は、明治37年(1904年)から明治38年(1905年)にかけて、日本とロシア帝国の間で行われた近代戦争です。
主な争点は、朝鮮半島と満州(中国東北部)の支配権でした。
この戦争は、日本が列強に対して本格的に挑んだ初めての大規模戦争であり、世界史的にも大きな影響を与えました。
背景:なぜ日本とロシアが対立したのか?
19世紀末、ロシア帝国は南下政策を進め、
- 満州への進出
- 朝鮮への干渉
- 不凍港(冬でも凍らない港)を求める野心
を強めていました。
一方、日本は
- 朝鮮を独立させ、日本の安全圏としたい
- 満州の権益確保
を目指し、ロシアと利害が衝突しました。
さらに、三国干渉で遼東半島を返還させられた日本は、ロシアへの不信感・反発を強めていたことも大きな要因です。
外交交渉はまとまらず、ついに戦争へと突入しました。
戦争の経過
1904年2月:開戦
日本海軍が旅順港のロシア艦隊を奇襲し、戦争が始まりました。
陸戦
- 旅順攻囲戦
日本陸軍が旅順(現在の遼寧省)を攻める激戦。多くの犠牲を出しながらも占領に成功。 - 奉天会戦
約60万人が激突する近代史上最大規模の会戦。
日本が勝利し、ロシア軍は後退。
海戦
- 日本海海戦(東郷平八郎 vs バルチック艦隊)
日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊をほぼ壊滅させた海戦。
東郷平八郎の「丁字戦法」が有名で、
世界的な海戦史に残る大勝利といわれる。
ポーツマス条約(1905年)
アメリカの仲介により、ポーツマス(米国)で講和会議が開かれました。
日本側全権:小村寿太郎
ロシア側全権:ウィッテ
条約の主な内容
- 朝鮮における日本の指導権をロシアが承認
- 南樺太(北緯50度以南)を日本が獲得
- 旅順・大連の租借権、南満州鉄道の権益を継承
- 賠償金は得られず(国民の期待と大きくズレて暴動へ)
戦争の結果と影響
① 日本の列強入り
日本はアジアで初めて欧米列強に勝利し、
世界から“強国”として認められるようになりました。
② ロシア帝国の動揺
敗北したロシアでは社会不安が高まり、
1905年ロシア革命 の引き金となりました。
③ 朝鮮への介入強化 → 併合へ
日本は条約で認められた「指導権」をもとに、
- 保護国化(1905)
- 韓国併合(1910)
へと進みます。
④ 国内では「日比谷焼打事件」
賠償金を得られなかったことで国民が不満爆発し、大規模な暴動が起こりました。
■まとめ
日露戦争は、日本とロシアが朝鮮と満州をめぐって争った戦争で、日本は近代的軍事力を背景に勝利しました。
ポーツマス条約により、日本は国際的地位を高める一方、国内では期待とのギャップから不満が噴出しました。
この戦争は、日本の対外進出がさらに加速する大きな転換点となりました。
明治 38年(1905年)
9月5日
ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく)締結とは、明治38年(1905年)9月5日、日露戦争の講和条約として日本とロシア帝国が結んだ条約を指します。
アメリカの仲介によって実現したこの条約は、日本が列強の仲間入りを果たす重要な転換点となりました。
背景:なぜ条約が必要になったのか?
1904〜1905年の日露戦争で、日本は連勝したものの、戦争は長期化し、軍事費は国家財政を圧迫していました。
一方ロシアも、敗戦が続くなか国内で革命運動(1905年ロシア革命)が勃発し、戦争継続が困難になっていました。
両国とも「もう戦争を続けられない」という状況になり、アメリカ大統領 セオドア・ルーズベルト が仲介して講和会議が開かれました。
会場:アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマス
日本全権:小村寿太郎
ロシア全権:セルゲイ=ウィッテ
条約の主な内容
ポーツマス条約は、日本の外交的勝利とされる一方、国民の期待とのギャップも大きいものでした。
① 日本の朝鮮における指導権をロシアが承認
日本は朝鮮半島における優越的地位を正式に認められ、後の保護国化(1905)→韓国併合(1910)への道が開かれます。
② 南樺太の割譲
北緯50度以南の樺太(サハリン南部)が日本領になりました。
③ 旅順・大連の租借権、南満州鉄道の利権を継承
ロシアが保有していた
- 旅順(軍港)
- 大連(商港)
- 南満州鉄道(重要な経済・軍事ルート)
の権益を日本が引き継ぎました。
日本の大陸進出が一気に拡大します。
④ 賠償金は得られなかった
日本国内では大きな不満が発生した最大の理由です。
小村寿太郎は国力・財政状況から「賠償金要求は不可能」と判断しましたが、国民は「ロシアから大金を取れる」と期待していたため、後に大規模暴動が起こりました。
ポーツマス条約の影響
① 日本は列強の仲間入りを果たす
アジアの国として初めて欧米の大国に勝利した日本の評価は一気に高まり、国際的地位を大きく向上させました。
② ロシアは国内混乱へ
敗北によりロシア帝国の権威は低下し、1905年ロシア革命の進行を加速させました。
③ 日本国内の大騒動「日比谷焼打事件」
賠償金が得られなかったことで国民が激しく反発し、東京の日比谷公園を中心に大規模な暴動が起こりました。
政府は戒厳令を敷く事態に。
④ 日本の大陸進出強化
南満州鉄道・旅順・大連の権益により、日本は満州進出を強化し、のちの中国大陸政策へつながっていきます。
まとめ
ポーツマス条約は日露戦争を終結させた講和条約で、日本は朝鮮における指導権・南樺太・満州の権益など大きな利益を得ました。
一方で賠償金が得られなかったため国内では強い不満が噴出し、日比谷焼打事件が発生するなど社会不安も生まれました。
明治 40年(1907年)
文言解説
- 神饌幣帛料供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)
地方公共団体から神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)の供進を受けていた神社の意。神饌幣帛料とは、神饌(神様に供える供物)と幣帛(神様に捧げるお金)のこと。
明治 43年(1910年)
日米通商航海条約(にちべいつうしょうこうかいじょうやく)締結とは、明治43年(1910年)に日本とアメリカ合衆国との間で結ばれた、貿易と航海に関する条約を指します。
この条約は、日本が近代化を進める中で、アメリカとの経済・外交関係をより安定的に整えることを目的として締結されたもので、日露戦争後の国際関係の中で非常に重要な位置を占めています。
背景:日露戦争後の日本とアメリカの関係
日露戦争(1904–1905)で日本が勝利すると、日本は列強の仲間入りを果たし、アジア太平洋地域での勢力を急速に拡大させました。
一方アメリカも、中国市場の権益を守るため「門戸開放政策」 を進めており、日本との関係を安定させる必要がありました。
日本にとっても、
- 清国市場の拡大
- アメリカとの経済摩擦の回避
- 移民問題(日本人移民排斥運動)への対応
といった理由から、両国関係の調整が重要でした。
日米通商航海条約の目的
主な目的は次のとおりです。
- 両国間の貿易ルールを近代的なものに整備する
- 日本の工業化に必要な原料・資本の流入を促す
- アメリカ市場への日本製品の販路を安定させる
- 日露戦争後の東アジア情勢に協調して対応する
条約の主な内容
この条約は、両国の経済活動を円滑にするための規定を含んでいました。
- 最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)
互いに最も有利な通商条件を相手国にも適用するという取り決め。
これにより、日本とアメリカの貿易はより自由で平等な関係となりました。 - 関税に関する協定の整備
日本が関税自主権を完全に回復しつつあった時期であり、
新条約では、日本が独自に関税を決定する権利がより明確に認められました。 - 航海と商船に関する規定
両国の商船が互いの港を利用する際、
公平な取り扱いを受けるよう規定が整えられました。 - 投資や商取引の安定化
アメリカ企業の日本での活動、日本企業の米国内活動に関するルールが明確化されました。
歴史的意義
日米通商航海条約は、次の点で日本の近代化に大きく寄与しました。
- 日本の「関税自主権の完全回復」へ向けた一歩
不平等条約改正の最終段階として、日本の外交的自立を象徴する出来事でした。 - 日米経済関係の安定化
民間貿易が拡大し、日本の工業力向上と輸出増加に役立ちました。 - 東アジアでの日米協調の基盤
中国市場をめぐる国際環境のなかで、日米両国が一定の協力関係を維持する基礎となりました。
まとめ
日米通商航海条約は、1910年に日本とアメリカが貿易・航海に関する取り決めを整えた条約で、日本の外交的自立と日米経済関係の安定に大きな役割を果たしたものです。
大正時代
大正 3年(1914年)
第一次世界大戦勃発の背景ときっかけ
第一次世界大戦(1914年~1918年)は、20世紀初頭のヨーロッパにおける複雑な政治的・軍事的緊張が高まった末に勃発した大規模な戦争です。
戦争の直接的なきっかけは、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドが、ボスニアのサラエボでセルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件(サラエボ事件)です。
この暗殺事件を契機として、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに対して最後通牒を送り、同年7月28日にセルビアに宣戦布告。これにより、各国が同盟関係に基づいて次々に参戦し、戦争は瞬く間にヨーロッパ全体、さらには世界規模に拡大していきました。
主な原因
- 帝国主義:欧州列強(特にイギリス・フランス・ドイツなど)は植民地拡大を巡って対立していました。
- 軍拡競争:列強は軍事力を強化し、戦争への準備を進めていました。
- 同盟体制の成立:
- 三国同盟(ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア)
- 三国協商(イギリス・フランス・ロシア)
この二大陣営が対立構造を作っていました。 - 民族主義の高まり:特にバルカン半島では、スラブ系民族の独立運動が激しくなっており、セルビアとオーストリアの対立が深まっていました。
このように、第一次世界大戦は一つの事件をきっかけに、多くの国々がそれぞれの利害関係と同盟によって戦争に巻き込まれていった、「総力戦」とも呼ばれる大規模な世界戦争でした。
大正 4年(1915年)
※主な参考資料
- 各地、各施設などのパンフレットやWEBサイト(個別に記載)
- 史料にみる日本の近代(国立国会図書館WEBサイト)
- 戦後70年へ-日本の戦争と戦後の歩み-年表に関する最新ニュース(朝日新聞WEBサイト)
- ウィキペディア
データの表示順位
各データは以下の順で並んでいます。
- 時代1(大分類:古代、中世など)
- 時代2(小分類:平安時代、江戸時代など)
- 年(元号による分類)
- 日本の歴史(教科書などに出てくる歴史の大きな事象)
- 月
- 日
- 都道府県
- 地域
- 市区町村
- 場所
軸となる”日本の歴史”部分は、年ごとのデータの中で優先的に最初の方に表示するようにしました。
