
「この時代には何があったんだろう?」、「この時期にこの地方ではどういうことが起きていたんだろう?」。
そういった些細な疑問を解決したくてこのページを作ってみました。
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歴史データ
近世
江戸時代
慶応 元年(1865年)
慶応 2年(1866年)
1月21日
薩長同盟は、1866年(慶応2年)に、薩摩藩(さつまはん)と長州藩(ちょうしゅうはん)が結んだ政治的・軍事的な同盟です。
この同盟は、のちの倒幕(とうばく)運動を決定的に加速させ、明治維新につながる大きな転換点となりました。
同盟成立の背景
対立していた薩摩と長州
もともと薩摩藩と長州藩は、政治的な立場も考え方も異なり、敵対関係にありました。
- 薩摩藩:幕府寄り、公武合体派 → 外交による安定を重視
- 長州藩:尊王攘夷・倒幕派 → 武力による変革を志向
さらに、1864年の禁門の変で長州が朝廷に兵を挙げた際、薩摩は幕府側として長州征伐に参加しています。
長州藩の危機
その後、幕府による「第二次長州征討」が迫る中、孤立していた長州藩は窮地に追い込まれ、強力な味方を必要としていました。
坂本龍馬の仲介
そこで登場するのが、坂本龍馬(土佐藩出身)です。
彼は両藩の利害を調整し、共通の敵=江戸幕府の打倒という目的で手を組むよう説得。
この仲介により、1866年1月21日(旧暦)に京都で秘密裏に薩長同盟が結ばれました。
同盟の内容(主な約束)
- 薩摩藩は、長州藩が幕府と戦う際には軍事的・政治的支援を行う
- 長州藩は薩摩との連携を強化し、倒幕を目指す
- 両藩は協力して、幕府を倒し新政府樹立に向かう
※ 正式な条約ではなく、口約束に近い内容でしたが、両者の信頼と意思が明確に示されたものでした。
同盟の結果と影響
- 倒幕運動の主力が結集:薩摩と長州という二大有力藩が手を組んだことで、幕府に対抗しうる勢力が誕生。
- 1867年の大政奉還→王政復古の大号令(1868年)へと展開
- 明治政府の基礎を築いたのは、事実上この薩長同盟を起点とした動きでした。
まとめ
薩長同盟は、幕末日本の歴史を大きく変えた「同盟以上の同盟」といえる存在です。
これにより、旧来の幕府体制は大きく揺らぎ、やがて明治維新による新しい時代の幕が開くことになります。
慶応 3年(1867年)
10月14日
大政奉還とは、1867年(慶応3年)10月14日、第15代将軍徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)が、政権(政治の実権)を朝廷に返上した出来事です。
これは、260年以上続いた江戸幕府が事実上終わりを迎える歴史的な転換点であり、明治維新へとつながる重要な一歩となりました。
背景
- 倒幕運動の高まり
幕末、日本国内では尊王攘夷運動が高まり、特に薩摩藩や長州藩は幕府を倒して新しい政府をつくろうとする「倒幕運動」を強めていました。 - 慶喜の政治判断
一方、徳川慶喜は聡明な政治家であり、武力衝突による内乱を避けるために、逆に自ら政権を朝廷に返すことで主導権を握ろうとします。
大政奉還の内容
1867年10月、慶喜は朝廷に対して政権返上を申し出る「大政奉還上表文」を提出し、翌日には朝廷がこれを正式に受理。
「政権を朝廷に奉還し、今後は天皇のもとに諸侯が合議して政治を行うべきである」
という建前のもとで、徳川家が新政府内で一定の影響力を保ち続けることを狙っていました。
結果とその後
- 大政奉還により、幕府という政治体制は形式的には終わりを迎えました。
- しかし、薩摩・長州などの倒幕派はこれだけでは満足せず、「王政復古の大号令」(同年12月)を出し、徳川家を完全に政権から排除しようとします。
- この後、鳥羽・伏見の戦い(1868年)へとつながり、戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まります。
大政奉還の意義
- 平和的な形で政権移行を試みた画期的な政治判断
- 明治維新の直接的な引き金となった
- 武家政権から天皇を中心とする近代国家体制へと移行するスタート
まとめ
大政奉還は、徳川慶喜による「自ら政権を返す」という戦略的判断であり、日本が幕府体制から脱し、近代国家へと進む第一歩でした。
しかしその裏では、政権を誰が握るかを巡る激しい政治闘争が続いており、完全な幕府終焉まではなお一波乱あったのです。
12月9日
王政復古の大号令とは、1867年(慶応3年)12月9日、京都御所にて明治天皇の名のもとに出された宣言で、
江戸幕府による武家政権を廃止し、天皇を中心とする新しい政治体制(王政)を復活させるという内容のものです。
これは、日本の歴史において「幕府から近代国家へ」という大転換を告げる、非常に重要な布告でした。
背景
- 大政奉還の直後
2か月前の1867年10月14日、第15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返上する「大政奉還」を行い、幕府は形式上消滅しました。
しかし、慶喜は新政府の中でも引き続き主導的な立場に立とうと考えており、徳川の政治的影響力は依然として残る状況にありました。 - 倒幕派の危機感
これに対し、薩摩藩や長州藩を中心とする急進的な倒幕派は、徳川勢力を完全に排除する必要があると考え、武力を背景に朝廷を動かして新体制樹立に踏み切りました。
大号令の内容
1867年12月9日、朝廷から出された「王政復古の大号令」の主なポイントは以下の通りです:
- 幕府の完全廃止
- 摂政・関白などの旧来の朝廷機構の廃止
- 新しい政府の設置(総裁・議定・参与の三職)
- 天皇親政(天皇が政治の中心となる)体制の宣言
この布告により、約260年間続いた徳川幕府は正式に終わりを告げました。
その後の展開
- 翌日、徳川慶喜に対し辞官納地(官職返上と領地返還)が命じられ、旧幕府勢力の排除が進められます。
- これに反発した旧幕府側は、1868年の鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、戊辰戦争へと突入。
- 結果的に、倒幕派が勝利し、明治政府が本格始動していきます。
王政復古の意義
- 政治権力が武士から天皇へと戻された象徴的な出来事
- 明治維新の起点となる政治革命
- 日本が中央集権的な近代国家へと移行する体制のスタート
まとめ
王政復古の大号令は、単なる形式的な宣言ではなく、日本の歴史を大きく動かした実質的な政権交代の瞬間でした。
ここから本格的な明治政府が始まり、廃藩置県・徴兵制・教育制度改革など近代化政策が急速に展開されていきます。
慶応 4年(1868年)
分離前は冨士山興法寺(こうほうじ)と呼ばれていた。
1月
戊辰戦争は、1868年(慶応4年)から1869年(明治2年)にかけて行われた、
新政府軍(薩摩・長州・土佐など)と旧幕府軍(徳川慶喜を支持する勢力)との内戦です。
この戦争は、日本の封建体制を終わらせ、天皇を中心とする近代国家体制を築く道を切り開いた歴史的な出来事です。
戦争の背景
1867年の大政奉還と王政復古の大号令によって、幕府は公式に廃止されました。
しかし、旧幕府側の中心人物である徳川慶喜は、政権返上後も一定の発言力を保とうとし、新政府側はこれを警戒。
最終的に両者は武力衝突に至り、戊辰戦争が勃発しました。
主な戦いの流れ
- 1868年1月|鳥羽・伏見の戦い
京都近郊で新政府軍と旧幕府軍が最初の大規模衝突。
薩摩・長州連合軍が勝利し、旧幕府軍は敗退。 - 1868年3月|徳川慶喜が江戸城に戻る
新政府軍は江戸に進軍。江戸での戦争を避けるため、
西郷隆盛と勝海舟の間で和平交渉が行われる。 - 1868年4月|江戸無血開城
戦闘を回避し、江戸城は流血なしで新政府軍に明け渡される。 - 1868年5月~7月|東北・北陸地方の戦い
会津藩、庄内藩などが「奥羽越列藩同盟」を結成し、新政府軍に抵抗。
しかし新政府軍の進軍により、次々と制圧されていく。 - 1868年10月~1869年5月|箱館戦争(五稜郭の戦い)
旧幕府軍の残党(榎本武揚・土方歳三ら)が北海道に逃れ、
函館・五稜郭で最後の抵抗を試みるも、新政府軍が制圧し降伏。
結果と影響
- 徳川幕府勢力の完全な消滅
- 新政府(明治政府)の全国統一が完了
- 中央集権国家の土台が固まり、近代化政策が本格化
この戦争の終結をもって、日本は江戸時代の封建制度を脱し、明治という新時代へと本格的に突入しました。
まとめ
戊辰戦争は、単なる武力衝突ではなく、時代そのものの転換を象徴する内戦でした。
旧来の徳川体制と、新しい近代国家構想とがぶつかり合い、最終的に後者が勝利したことで、
日本は天皇を中心とした国家体制へと進化していきます。
鳥羽・伏見の戦いは、1868年(慶応4年)1月3日〜6日にかけて、
京都の南部(鳥羽・伏見付近)で行われた、戊辰戦争の最初の戦いです。
この戦いで新政府軍(薩摩・長州・土佐など)が旧幕府軍に勝利したことで、
明治維新の流れが一気に加速し、江戸幕府の崩壊が決定的になった重要な戦いです。
- 背景
- 王政復古による政権交代
1867年12月、「王政復古の大号令」によって江戸幕府は廃止され、天皇中心の新政府が成立しました。
しかし、これに納得できなかった徳川慶喜は、新政府に不満を抱き、武力によって主導権を取り戻そうと考えます。 - 旧幕府軍の進軍
1868年1月、旧幕府軍は2万人以上の兵力で京都へ進軍を開始。
それに対して、新政府軍(薩摩・長州連合)は約5,000人と兵力では劣っていましたが、天皇の「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げて正統性を主張しました。
戦いの経過
- 鳥羽方面と伏見方面で同時に戦闘が発生
- 新政府軍は新式銃や大砲など、西洋式の軍備で旧幕府軍を圧倒
- 天皇の名を背負った「官軍」という名目もあり、旧幕府軍の士気は急速に低下
- 徳川慶喜は戦局不利と見るや、戦わずして大阪城から江戸へ撤退
この「戦わずして将軍が逃げた」行動は、旧幕府軍の士気を大きく損ねる結果となりました。
結果と影響
- 新政府軍の圧倒的勝利
- 旧幕府軍は指導力を失い、全国的に劣勢に
- この戦いを機に戊辰戦争が本格化(→江戸無血開城、会津戦争、箱館戦争へと続く)
- 「徳川時代の終焉」が事実上、ここで始まった
鳥羽・伏見の戦いの意義
- 明治新政府が初めて軍事的に幕府勢力を打ち破った戦い
- 天皇を中心とした国家体制(新政権)の正当性を内外に示した
- 日本の近代国家化への第一歩となる歴史的な軍事的勝利
まとめ
鳥羽・伏見の戦いは、ただの武力衝突ではなく、「旧時代の終わりと新時代の始まり」を告げる戦いでした。
ここから始まった戊辰戦争の流れが、やがて明治維新という大改革へとつながっていくのです。
4月11日
江戸無血開城とは、1868年(慶応4年)4月11日、
江戸幕府の本拠地である江戸城が、新政府軍に一発の銃声もなく引き渡された歴史的事件です。
この出来事は、大都市・江戸が戦火に巻き込まれるのを回避し、戊辰戦争の被害を最小限に抑えた平和的解決の象徴とされています。
- 背景
- 鳥羽・伏見の戦いの敗北
1868年1月、新政府軍と旧幕府軍が激突した鳥羽・伏見の戦いで、徳川側は敗北。
将軍・徳川慶喜は戦意を喪失し、大阪から江戸へ退却します。 - 新政府軍の東征
勝利した新政府軍は「朝敵・徳川家を討つ」として東へ進軍。
西郷隆盛を総司令官とし、いよいよ江戸に迫ります。
一方で、江戸には100万人を超える市民が住んでおり、戦争になれば大惨事は避けられない状況でした。
和平交渉の実現
この緊張状態の中、旧幕府側の代表として登場したのが勝海舟(かつ かいしゅう)、新政府軍の代表は西郷隆盛(さいごう たかもり)でした。
二人は1868年3月13日(新暦4月11日)に江戸・薩摩藩邸で会談を行い、以下のような和平条件で合意に達します。
主な合意内容
- 江戸城を戦わずに明け渡す
- 徳川慶喜の命は保証する
- 市民に被害が出ないよう徹底する
- 新政府軍が規律を守って入城する
結果と影響
- 1868年4月11日、江戸城が無血で新政府に明け渡される
- 日本史上最大級の都市を戦火から救った歴史的和平
- 新政府の寛大な姿勢が広まり、徳川家処分も比較的穏健に
- この後も東北・北海道で戦闘は続いたが、江戸の平和は守られた
江戸無血開城の意義
- 戦争によらずに政権交代を成し遂げた世界的にも珍しい事例
- 勝海舟と西郷隆盛という人間的信頼に基づく政治判断の成功例
- 明治新政府の平和的イメージを内外にアピールする結果に
まとめ
江戸無血開城は、武力によらずに時代を変えることができた稀有な歴史的事件です。
この平和的開城があったからこそ、江戸は「東京」へと姿を変え、明治維新の中核都市として発展していくことができました。
10月
箱館戦争とは、1868年から1869年にかけて現在の北海道・函館市(当時は箱館)を舞台に行われた、
戊辰戦争の最終局面にあたる戦争です。
旧幕府軍の残党が最後の拠点として五稜郭(ごりょうかく)に立てこもり、
新政府軍と戦ったこの戦いは、幕末最後の内戦とされています。
背景
- 戊辰戦争の流れ
1868年、鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争では、新政府軍が各地で勝利を収め、江戸無血開城、会津戦争などを経て旧幕府勢力は次第に追い詰められていきました。 - 榎本武揚らの脱出
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもと たけあき)は、戦局が悪化する中、最新鋭の軍艦「開陽丸」など8隻の艦隊を率いて、旧幕府軍の兵士・家族を連れて江戸を脱出。目的地は「北の大地・蝦夷地(北海道)」でした。
蝦夷地での「新政府」樹立
- 1868年10月、榎本武揚らは箱館を占領。
- 西洋式の城郭「五稜郭」を本拠地とし、「蝦夷共和国(えぞきょうわこく)」を名乗る独自政権を樹立。
- 土方歳三(ひじかた としぞう/元新選組副長)なども参加し、徹底抗戦を準備。
これは日本史上初の「共和国」的政治体制でしたが、正統性は国際的にも国内的にも認められませんでした。
新政府軍の反攻と戦いの終結
- 1869年春、新政府軍は海軍・陸軍を動員し、本格的な北方遠征(箱館討伐)を開始。
- 開陽丸は座礁し、旧幕府軍は大打撃。
- 土方歳三は戦死し、士気も低下。
- 1869年5月18日、榎本武揚が降伏し、五稜郭は開城。
- これにより戊辰戦争は終結し、日本の統一国家体制が完成します。
箱館戦争の意義
- 戊辰戦争の最後の戦いであり、江戸幕府の完全終焉を象徴
- 土方歳三ら、最後まで武士として戦った人々の「滅びの美学」が語り継がれる
- 蝦夷地(北海道)が国家的に注目されるきっかけとなり、その後の北海道開拓政策にも影響
まとめ
箱館戦争は、江戸幕府の残党が最後の希望を託して挑んだ、「最後の侍たち」の戦いでした。
しかし、時代の流れは彼らを許さず、日本は明治新政府によって統一され、近代国家への第一歩を踏み出すことになります。
近代
明治時代
明治 元年(1868年)
3月14日
五箇条の御誓文は、1868年(慶応4年/明治元年)3月14日に、明治天皇が天地神明に誓って公布した、新政府の基本方針(政治理念)です。
これは、明治維新における新しい国づくりの宣言であり、旧来の封建体制を否定して、
近代国家への道筋を明確に示した重要な文書です。
制定の背景
- 江戸幕府が崩壊し、明治新政府が発足した直後、日本はこれまでの価値観や制度を大きく転換する必要に迫られていました。
- 国内の諸藩や武士たちの不安を抑え、全国民をまとめるために、新政府が掲げる政治の方向性を明確にする必要がありました。
- そのために、国の最高権威である天皇自らが神々に誓う形で、国家の方針を示す儀式が行われました。
五箇条の内容(現代語訳)
- 広く会議を興し、万機公論に決すべし
→ 政治は独断でなく、広く議論を行って決定する - 上下心を一にして盛んに経綸(けいりん)を行うべし
→ 身分の上下を問わず、皆で国づくりに参加する - 官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
→ 身分に関係なく、自由に能力を発揮できる社会を目指す - 旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基づくべし
→ 古い悪習は捨て、道理と国際的な普遍的価値に基づく - 知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし
→ 世界の知識を取り入れて、天皇のもとに強い国家を築く
意義と影響
- 明治政府の国家理念を示す基本方針として、国内外に向けて近代国家への決意を表明
- この方針に基づき、廃藩置県・四民平等・教育制度改革・殖産興業などの近代化政策が次々に実行
- 天皇による「誓いの形式」を取ったことで、全国の武士・庶民に強い影響と正当性を与えた
五箇条の御誓文の本質
形式は「天皇の誓い」ですが、実質的には新政府(特に由利公正や木戸孝允などの倒幕リーダーたち)による政治宣言でした。
この理念はその後の日本の政治や教育にも受け継がれ、近代日本の精神的支柱のひとつとなります。
まとめ
五箇条の御誓文は、単なるスローガンではなく、明治政府の国家ビジョンを内外に示した歴史的な指針です。
ここから日本は、封建から近代へ、孤立から開国へ、大きく舵を切っていくことになります。
明治 2年(1869年)
版籍奉還とは、1869年(明治2年)に、明治新政府が行った改革の一つで、
全国の大名たちが土地(版図)と人民(戸籍)を天皇に返上する制度改革です。
これは、中央集権国家を築くための第一段階であり、のちの「廃藩置県」へとつながる重要な政策です。
- 背景
- 幕藩体制からの脱却
江戸時代、日本は「幕藩体制」によって、各地の大名(藩主)が独自の領地・軍事・税制を持つ分権的な国家体制でした。
しかし、明治新政府は全国を統一的に支配する中央集権国家を目指しており、そのためにはまず、「土地と人民を藩主の支配から国家の支配へ移す」必要がありました。 - 大名の協力
このとき、先進的な考えを持っていた薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩の4藩主が率先して版籍奉還を申し出たことで、
他の藩主たちもこれに倣い、日本全国の大名が土地と人民を天皇に返上する形となりました。
版籍奉還の内容
- 「版」= 藩の領地(土地)
- 「籍」= 藩が管理していた人民(戸籍)
これらを大名が「朝廷(天皇)」に奉還(返す)することで、
名目上、日本全国の土地と人民は天皇のもの=国家のものとなりました。
ただしこの時点では、
- 藩は存続
- 旧藩主はそのまま「藩知事」として引き続き統治
- 藩の財政や軍事の実権も残る
という意味で、完全な統一はまだ実現していませんでした。
意義と影響
- 幕藩体制から中央集権国家への移行の第一歩
- 封建的な支配構造を形式上終わらせ、天皇を中心とする国家体制の基盤を築く
- のちの廃藩置県(1871年)の布石となり、真の意味での一元的統治が可能に
まとめ
版籍奉還は、明治政府が全国の大名に土地と人民を返上させることで、
封建的な領主支配を終わらせ、国家による統治体制を築こうとした近代化の第一歩でした。
これにより、日本は「藩主の国」から「国民の国」へと、歴史的な転換を進めていきます。
7月17日
東京遷都とは、1869年(明治2年)に、明治天皇が京都から江戸へ移り、江戸を「東京(とうけい/とうきょう)」と改称して、新しい首都とした出来事を指します。
正式な「遷都宣言」は出されていませんが、実質的にはこの時点で日本の政治・行政の中心が京都から東京に移されたことになります。
背景
江戸幕府の崩壊
1868年、戊辰戦争によって江戸幕府が滅び、政治の中枢は天皇を中心とした明治新政府に移りました。
その中心人物たち(薩摩・長州・土佐など)は、中央集権国家の建設と近代化を急ぐ中で、江戸の戦略的価値に注目しました。
なぜ東京だったのか?
- 人口が多く経済の中心地(当時の江戸の人口は100万人を超えていた)
- 東日本の交通・物流の要所(海陸のアクセスが良好)
- 徳川家の拠点だった江戸城を利用できる
- 幕府の権威を引き継ぎ、新政府の統治を安定させやすい
このような理由から、江戸をそのまま「新たな都」とするのが最適と判断されたのです。
「東京」誕生と天皇の東行
- 1868年7月17日:江戸が「東京(東の都)」と改称される。
- 1869年3月:明治天皇が東京に「東幸(とうこう/東への行幸)」し、江戸城に入る。
- 以後、天皇は東京に常駐し、政治・行政の実務もすべて東京で行われるようになる。
この一連の流れによって、事実上の遷都(首都移転)が完了しました。
東京遷都の意義
- 政治・経済の中心を東日本に移した近代国家構築の第一歩
- 新時代(明治時代)の象徴的な出来事として、国民に「新政府の始まり」を印象づけた
- 中央集権体制の確立と首都の機能強化が進む契機に
また、東京はその後の明治政府の改革(廃藩置県、教育制度、国会設置など)を担う日本の近代化の中心地となっていきます。
まとめ
東京遷都は、江戸から東京へという単なる「名前の変更」ではなく、
日本の国家体制を近代的に再編成する上での象徴的・実質的な転換点でした。
それにより、京都に根ざした伝統的な公家文化から、東京を拠点とする近代国家の政治・経済体制へと大きく舵が切られたのです。
明治 4年(1871年)
7月14日
廃藩置県は、1871年(明治4年)7月14日に明治政府が断行した、
全国の「藩」を廃止し、すべてを「県」に置き換えることで、中央集権体制を確立した大改革です。
これは、江戸時代から続いていた「大名による地方支配」を完全に終わらせ、近代国家としての統一体制を築く決定的な一手となりました。
- 背景
- 幕末の日本は「藩の集合体」
江戸時代、日本は徳川幕府と各地の大名(藩)が並立する「幕藩体制」でした。
明治維新後も、版籍奉還(1869年)によって藩主は「藩知事」と改称されましたが、なおも各藩が独自に軍隊や財政を持ち、地方の実権を握っている状況が続いていました。 - 政府の危機感
中央集権国家を目指す明治政府にとって、「半独立国」のような藩の存在は内乱や分裂の火種になると懸念されていました。
廃藩置県の実施
- 1871年7月14日:明治政府が全国の藩を廃止し、すべてを府・県に再編
- 当初は3府302県に分割され、のちに統合を重ねて現在の形(1都1道2府43県)へと整えられていきます
- 各地の藩知事(旧大名)には東京に住むよう命じられ、中央から派遣された「県令」が地方を統治
これにより、軍事・税制・行政すべてが中央政府に一元化され、藩という地方権力は完全に消滅しました。
意義と影響
- 封建制度の完全な終焉
→ 大名の領地支配が終わり、明治政府が全国を直接統治 - 中央集権国家の実現
→ 日本が「藩の集合体」から「一つの国家」へと統合 - 近代行政制度の出発点
→ 各地に役所が設置され、統一された行政・教育・軍制が可能に - 近代国民国家の基盤形成
→ 国民すべてが「藩の民」から「日本国民」へと意識を変えていく
まとめ
廃藩置県は、明治維新における最も大胆かつ決定的な改革の一つです。
この改革によって、日本は封建的な大名の支配から解き放たれ、中央政府が全国を統治する「近代国家」としてのかたちを整え始めたのです。
11月
岩倉使節団とは、1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて、明治政府が欧米諸国に派遣した公式の外交・視察団のことです。
リーダーを務めたのは右大臣の岩倉具視(いわくら ともみ)で、日本の近代化を進めるために、条約改正の交渉と、欧米の制度・技術・文化の実地調査を目的として派遣されました。
主なメンバー
- 岩倉具視(特命全権大使・政府代表)
- 木戸孝允(副使/元長州藩)
- 大久保利通(副使/元薩摩藩)
- 伊藤博文(書記官 → のちの初代内閣総理大臣)
- 山口尚芳、久米邦武、津田梅子(女子留学生) など、随行員を含めて総勢107人
派遣の概要
- 出発:1871年(明治4年)12月、横浜港を出港
- 訪問国:アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシアなど12か国以上
- 帰国:1873年(明治6年)9月
旅の期間は約1年10か月(=実質2年間)という非常に長いもので、
当時の国際情勢や最新の科学・産業・教育制度などを実地で学びました。
目的と成果
- 不平等条約の改正交渉
→ 目標だった日米修好通商条約などの改正交渉は失敗。
「近代的な法制度が日本にまだ整っていない」と各国に拒否されました。 - 欧米諸国の視察・研究
→ 教育制度(義務教育・女子教育)、議会政治、産業革命、鉄道・郵便・銀行制度などを詳細に観察。
これらの知見は、帰国後の明治政府の諸改革(学制、徴兵制、憲法構想など)に大きな影響を与えました。
岩倉使節団の意義
- 欧米列強の先進制度を直接学び、日本の近代化政策に活用
- 明治政府の指導層が世界の現実を理解し、国際感覚を獲得
- 日本が独立国として生き残るために何が必要かを明確に認識
- 女子留学生(津田梅子など)の派遣が女性教育の先駆けに
よくある誤解
「条約改正は失敗だったから無意味だったのでは?」という意見もあるようですが、それは誤りです。
たしかに条約改正そのものは成果なしでしたが、日本の近代国家建設に必要な「リアルな学び」を得る旅として、非常に意義深いものでした。
まとめ
岩倉使節団は、幕末から明治にかけて生まれた「開国日本」が、世界に追いつき、対等な独立国として近代化するための学びと決断の旅でした。
その成果は、明治政府の政策全体に影響を与え、今日の日本の基礎を築く大きな礎となったのです。
明治 6年(1873年)
徴兵令とは、1873年(明治6年)に明治政府が発布した法律で、満20歳以上の男子に兵役の義務を課し、全国民から平等に兵士を徴集する近代的な軍隊制度を確立した政策です。
これは、それまで軍事を担っていた「武士(士族)」に代わって、全国民が国家の防衛に関わる近代国家の軍制改革の要でした。
背景
士族の軍事独占の終焉
江戸時代までは、武士(士族)だけが刀を持ち、戦争に従事していました。
しかし明治政府は、身分にとらわれない平等な国家づくりを目指し、軍事制度も抜本的に改める必要がありました。
西洋に学んだ「国民軍」の考え
岩倉使節団の欧米視察で学んだのは、フランスやプロイセン(ドイツ)などが実施していた徴兵制による常備軍の仕組み。
明治政府はこれに倣い、日本でも身分に関係なく兵役を課す「国民皆兵」の体制を築こうとしました。
徴兵令の内容(1873年当初)
- 対象:満20歳以上の男子(士族・平民問わず)
- 兵役期間:本役3年、予備役4年
- 免除規定:以下のような人々は兵役を免除された
代人料(だいにんりょう)270円を支払った者(後に廃止)
家族を扶養している者
学業継続中の者 など
初期の反発と「血税一揆」
徴兵令の公布直後、全国の農村部では強い反発が起きました。
- 「血税(けつぜい)」= 血を取られる税 → 子どもが殺されると誤解
- 「兵隊に取られるくらいなら娘を売ってでも逃れたい」などの声も
- 各地で「徴兵反対一揆(血税一揆)」が相次いで発生(特に西日本)
こうした混乱を受け、明治政府は一部条件を緩和しつつ、国民への啓蒙(教育)活動を進めながら制度の定着を図りました。
徴兵令の意義と影響
- 国民国家としての体制整備
→ 身分に関係なく「国家のために戦う」国民軍が誕生 - 士族の特権の崩壊
→ 軍事が士族の独占ではなくなり、士族の地位と誇りが大きく揺らぐ(→西南戦争の一因) - 日本の近代軍隊の土台
→ のちの日清戦争・日露戦争を支える軍制の基礎がここに築かれた
まとめ
徴兵令は、明治政府が実現を目指した「四民平等・国民皆兵」の象徴的な政策です。
多くの反発や混乱を乗り越えながら、武士の時代から、全国民が国家を支える時代へと移り変わっていく象徴的な転換点となりました。
明治 8年(1875年)
文言解説
- 郷社
神社社格の一つ。県社の下、村社の上に位する神社。郷村の産土神(うぶすながみ)をまつる社。
※主な参考資料
- 各地、各施設などのパンフレットやWEBサイト(個別に記載)
- 史料にみる日本の近代(国立国会図書館WEBサイト)
- 戦後70年へ-日本の戦争と戦後の歩み-年表に関する最新ニュース(朝日新聞WEBサイト)
- ウィキペディア
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- 時代1(大分類:古代、中世など)
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