
「この時代には何があったんだろう?」、「この時期にこの地方ではどういうことが起きていたんだろう?」。
そういった些細な疑問を解決したくてこのページを作ってみました。
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歴史データ
近世
江戸時代
寛文 11年(1671年)
貞享 5年(1688年)
元禄 10年(1697年)
元禄 11年(1698年)
宝永 7年(1710年)
正徳 6年(1716年)
享保 3年(1718年)
西楽寺八世・尊昭と弟子の直心により、胎蔵大日如来坐像が建立される。
享保 6年(1721年)
享保の改革は、江戸幕府の第8代将軍・**徳川吉宗(とくがわ よしむね)**が行った政治改革です。
1721年(享保6年)頃から始まり、1730年代半ばまで続いた大規模な改革で、財政の立て直しと幕府の統治強化を目的としていました。
背景
江戸時代中期、幕府の財政は次第に悪化していました。その理由には:
- 贅沢な支出の増加
- 飢饉や災害による年貢収入の減少
- 米価の変動による経済の不安定化
がありました。
特に7代将軍・徳川家継が早世したあと、紀州藩から将軍に迎えられた徳川吉宗は、幕府再建のために本格的な改革を始めます。
主な内容
以下は、享保の改革で行われた代表的な政策です:
① 倹約令(けんやくれい)
- 幕府・旗本・庶民に対して贅沢を禁じる政策。
- 衣食住を質素にし、無駄な支出を抑える。
② 上げ米の制(あげまいのせい)
- 大名に対し、石高の一定割合(通常1万石につき100石)の米を幕府に納めさせた。
- 幕府財政の補填を目的としているが、見返りに参勤交代の期間を緩和。
③ 足高の制(たしだかのせい)
- 有能な人材を登用するため、役職に見合った収入を補助する制度。
- 身分にとらわれず、能力主義の考えを導入。
④ 目安箱(めやすばこ)
- 江戸城前に設置され、庶民の意見や苦情を受け付けた。
- 「小石川養生所」設立など、実際に政策に反映された例もある。
⑤ 新田開発と農業奨励
- 新しい田畑を開発し、農業生産の拡大を図った。
- 代官に開発を奨励し、農民の生活安定も目指した。
⑥ 公事方御定書(くじかたおさだめがき)
- 裁判・刑罰の基準となる法令集を制定。
- 法の統一と公正な裁きの実現を目指した。
結果と評価
| 成果 | 内容 |
| ◎ | 一定の財政回復、政治の引き締めに成功 |
| △ | 庶民には増税や倹約が負担となり、不満も |
| △ | 米価の不安定さや自然災害により効果が限定的 |
享保の改革は**「質素・実用・安定」**を重視した堅実な改革でしたが、長期的には限界もありました。
まとめ
享保の改革は、江戸時代中期の代表的な改革であり、将軍自らがリーダーシップをとって政治を立て直そうとした重要な試みです。
その後の「寛政の改革」や「天保の改革」と並び、江戸三大改革のひとつとされています。
享保 8年(1723年)
享保 17年(1732年)
享保の飢饉は、江戸時代中期の享保17年(1732年)を中心に起きた大規模な飢饉で、徳川吉宗が将軍だった時代に発生しました。
これは江戸時代三大飢饉(享保・天明・天保)のうち、最初に起きたもので、日本各地に大きな被害をもたらしました。
発生の背景と原因
- ウンカ(害虫)の大量発生
享保17年、特に西日本(九州・中国・四国地方)を中心に、イネの害虫であるウンカが大量発生しました。
これにより、稲が枯れてしまい、大凶作となりました。 - 自然災害
台風や豪雨などの異常気象も重なり、農作物の収穫が大きく落ち込みました。 - 当時の経済状況
米の価格が急騰したにもかかわらず、庶民の賃金はそのままで、食料を手に入れることが困難に。
米の流通や備蓄も十分でなかったため、被害は一気に広がりました。
被害の状況
- 特に西日本で深刻
福岡藩(現在の福岡県)では、人口の1割近くが餓死したとも言われています。
広島、山口、大分、宮崎などでも多数の死者が出ました。 - 全国で数万人以上が死亡
正確な記録は残っていないものの、死者は数万人規模にのぼるとされています。 - 農民の生活が困窮
食料不足だけでなく、農村の崩壊や農民の離散も進みました。
幕府の対応
将軍・徳川吉宗は、享保の飢饉をきっかけに次のような政策を実施しました:
- 囲い米(かこいまい)の制度
飢饉に備えて各藩や幕府が米を蓄える制度。後の改革にも引き継がれました。 - 倹約令の発令
庶民にも倹約を求め、ぜいたくを控えるよう指導。 - 目安箱の設置
民衆の声を政治に反映させるため、江戸城前に意見を投書できる「目安箱」を設置しました。
まとめ
- 発生年:1732年(享保17年)
- 将軍:徳川吉宗
- 原因:ウンカの大発生、天候不順、制度的備えの不十分さ
- 被害:特に西日本で多数の餓死者、農村社会に大打撃
- 結果:囲い米や倹約令、目安箱などの政策導入
寛保 元年(1741年)
宝暦 3年(1753年)
安永 5年(1776年)
安永 8年(1779年)
天明 3年(1783年)
天明の飢饉は、江戸時代中期の天明年間(1782年~1788年)に発生した、日本史上最大級の飢饉の一つです。特に1783年(天明3年)を中心に、東北地方や北関東を中心に全国で被害が広がり、数十万人の餓死者が出たとされています。
発生の背景と主な原因
- 天候不順・冷害
1782年から数年間にわたり、冷夏や長雨などの異常気象が続き、稲作に大きな影響を与えました。 - 浅間山の大噴火(1783年)
現在の群馬県と長野県の境にある**浅間山(あさまやま)**が大噴火を起こし、火山灰が広範囲に降り注ぎました。
この影響で日照不足・農作物の枯死・洪水などが発生し、農村に壊滅的な被害を与えました。 - 経済制度の限界
米の流通が都市や大名に偏り、庶民や農民には行き渡らなかった。
飢饉に備える備蓄や制度が不十分であったため、食料不足に対応できませんでした。
被害の状況
- 東北・北関東を中心に全国的な被害
特に、米沢藩(山形県)・仙台藩(宮城県)・会津藩(福島県)など、寒冷地の農村で被害が深刻でした。 - 餓死者は数十万人規模
正確な記録はありませんが、全国で数十万人の死者が出たと考えられています。 - 農民の逃散や流民の増加
食料を求めて農村から都市へ逃れる農民が急増し、社会不安が拡大しました。
社会への影響
- 一揆・打ちこわしの多発
飢餓と米価高騰により、各地で百姓一揆や**打ちこわし(商人への襲撃)**が起こりました。 - 大都市でも混乱
江戸・大坂・京都などの都市でも、米の流通不足と物価の高騰で庶民の生活が苦しくなり、暴動が起きました。 - 政治的改革の契機
幕府の対応が不十分だったため、人々の不満が高まりました。
この飢饉の反省から、のちに老中松平定信による寛政の改革が行われることになります。
まとめ
天明の飢饉は、冷害や浅間山の噴火といった自然災害が重なって引き起こされた、江戸時代屈指の大飢饉です。東北地方を中心に全国的に農作物が壊滅的な被害を受け、多くの人々が餓死し、農村社会が大きく崩れました。加えて、食料不足による一揆や都市での混乱が社会不安を拡大させ、幕府の統治力が疑問視される事態となりました。この飢饉は、政治改革の必要性を痛感させる契機ともなり、のちの寛政の改革の実施へとつながっていきました。
天明 7年(1787年)
寛政の改革(かんせいのかいかく)は、江戸時代後期、第11代将軍徳川家斉(とくがわ いえなり)の時代に、老中・松平定信(まつだいら さだのぶ)が中心となって行った政治改革のことです。期間は主に1787年から1793年ごろまで。
背景
江戸幕府は18世紀後半、財政難や飢饉(特に天明の大飢饉)、農民一揆の多発などで、政治的・経済的に深刻な問題を抱えていました。これに対処するため、松平定信は祖父・徳川吉宗が行った享保の改革を手本として改革を試みました。
主な内容
- 倹約令(けんやくれい)
幕府や庶民に無駄遣いを禁じ、質素な生活を推奨しました。 - 農村の立て直し
飢饉で困窮する農民を救済するため、囲い米(かこいまい)制度を導入し、各藩や旗本に米を蓄えて飢饉に備えさせました。 - 朱子学の奨励
学問では、幕府の正統な学問である朱子学を重視し、それ以外の学問(特に自由な学問)を弾圧しました。
代表例:林子平や蒲生君平らの著作が出版禁止になりました。
人材登用
身分にとらわれず、優秀な人物を登用する政策も実施されました。
風紀の引き締め
娯楽や華美な生活を制限し、道徳的な社会を目指しました。
結果と評価
寛政の改革は一時的に秩序を取り戻したものの、庶民の生活を圧迫し、長期的な成功には至りませんでした。特に、厳しい倹約や思想統制は不満を生み、最終的に松平定信は失脚します。
寛政 元年(1789年)
寛政 11年(1799年)
佛殿・鐘楼・方丈・庫裡などの現存伽藍、また高巌院・徳燐院など子院の様子が描かれる。往時の姿を伝える貴重な資料。
享和 元年(1801年)
後に代官職を継ぎ、幕末期の改革派として活躍。
文政 元年(1818年)
文政 7年(1824年)
5月25日
第11代将軍徳川家斉より山城国伏見神社の御神体を拝受し、城の守護神として奉斎した。(稲荷神社と称す)
天保 元年(1831年)
天保 3年(1833年)
天保の飢饉は、江戸時代後期(1833年~1839年ごろ)にかけて日本全国を襲った大規模な飢饉です。江戸時代の三大飢饉(享保・天明・天保)のひとつに数えられます。
この飢饉は、農作物の大凶作と物価の高騰によって、都市部・農村部の広い範囲に深刻な被害をもたらし、多くの人々が餓死や困窮に追い込まれました。
発生の背景と原因
- 長雨と冷害
1833年(天保4年)から数年にわたり、異常気象が続きました。特に冷夏や長雨により、稲の生育が悪化し、各地で大凶作となりました。 - 洪水や風水害
各地で川の氾濫や洪水が頻発し、農地が流されるなどの被害も広がりました。 - 災害への備えの不足
幕府や藩の米備蓄制度(囲い米など)が十分に機能せず、食糧不足が一気に深刻化しました。
飢饉による影響
- 死者多数
正確な数は不明ですが、数十万人規模の餓死者が出たともいわれています。 - 打ちこわしや一揆の多発
米価の高騰と生活苦から、民衆による「打ちこわし(商人の家などを襲撃する行為)」や農民一揆が頻発しました。 - 都市部の混乱
特に大坂や江戸などの大都市では、米の価格が急騰し、庶民の生活が困窮。社会不安が急激に高まりました。 - 幕府への不信
飢饉への対応が後手に回ったことで、幕府の政治的信頼が低下し、後の「天保の改革」にもつながります。
関連する出来事
- 大塩平八郎の乱(1837年)
元大坂町奉行所与力の大塩平八郎が、飢えに苦しむ民衆を救おうと反乱を起こしました。この事件は、天保の飢饉に対する政治的不満が表面化した象徴的な出来事とされています。
まとめ
発生時期:1833年〜1839年ごろ
原因:冷害・長雨・洪水などの天災
被害:全国的な農作物の凶作と餓死者、打ちこわし・一揆の多発
影響:幕府の統治への不満が高まり、改革の必要性が浮き彫りに
※主な参考資料
- 各地、各施設などのパンフレットやWEBサイト(個別に記載)
- 史料にみる日本の近代(国立国会図書館WEBサイト)
- 戦後70年へ-日本の戦争と戦後の歩み-年表に関する最新ニュース(朝日新聞WEBサイト)
- ウィキペディア
データの表示順位
各データは以下の順で並んでいます。
- 時代1(大分類:古代、中世など)
- 時代2(小分類:平安時代、江戸時代など)
- 年(元号による分類)
- 日本の歴史(教科書などに出てくる歴史の大きな事象)
- 月
- 日
- 都道府県
- 地域
- 市区町村
- 場所
軸となる”日本の歴史”部分は、年ごとのデータの中で優先的に最初の方に表示するようにしました。
