
「この時代には何があったんだろう?」、「この時期にこの地方ではどういうことが起きていたんだろう?」。
そういった些細な疑問を解決したくてこのページを作ってみました。
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歴史データ
中世
安土桃山時代
天正 10年(1582年)
本能寺の変とは、1582年(天正10年)6月2日、天下統一を目前にしていた織田信長が、家臣の明智光秀(あけち みつひで)によって京都の本能寺で急襲され、自害に追い込まれた事件です。
この事件によって、信長は命を落とし、戦国時代の歴史が大きく揺らぐこととなりました。
事件の背景
織田信長は、武田家を滅ぼした後、中国地方の毛利氏との戦いに力を注いでいました。その一方で、家臣の明智光秀には兵を率いて毛利攻めに加わるよう命じていました。
しかし光秀は、命令に従うふりをしながら、突然進路を変更し、本能寺に滞在していた信長を襲撃します。
なぜ光秀は謀反を起こしたのか?
明智光秀が信長に謀反を起こした理由は、はっきりとはわかっていません。主な説は以下の通りです:
- 信長からの度重なる叱責や冷遇への恨み(怨恨説)
- 天下取りを狙った野心説
- 豊臣秀吉や徳川家康、あるいは朝廷が関与していたという陰謀説
- 信長の専制的な政治に対する反発
いずれの説も決定的な証拠はなく、日本史最大の謎の一つとされています。
本能寺の変の流れ
- 光秀は約1万3千の兵を率いて京都へ向かう
- 本能寺に滞在中の信長を奇襲
- 信長は奮戦むなしく、最終的に自刃(切腹)
- 同時に、京都近郊の妙覚寺にいた織田信忠(信長の嫡男)も襲撃され、討たれる
このようにして、織田家の中心人物2名が一夜にして命を落とす大事件となりました。
事件のその後
光秀はすぐに政権掌握を試みるが、13日後の「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗北し、敗走中に討たれます。
この勝利により秀吉が信長の後継者として台頭し、やがて天下統一を達成していきます。
まとめ
本能寺の変(1582年)は、織田信長が家臣・明智光秀の謀反により討たれた戦国時代最大の衝撃的事件です。
この事件は、信長の死とともに日本の歴史の流れを大きく変え、豊臣秀吉の登場へとつながる転換点となりました。
天正10年(1582年)、武田勝頼は織田信長によって滅ぼされ、三枚橋城も開城。
沼津では、
「沼津の城が落ちたやら、
引と箭と小旗のが流るる」
という童謡が歌われたと伝わり、城の落城が地域にも強い印象を残したことがわかります。
天正 13年(1585年)
天正 15年(1587年)
バテレン追放令(バテレンついほうれい)とは、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が発布した、キリスト教宣教師(バテレン)を日本から追放するよう命じた法令です。
この命令は、戦国時代に急速に広がっていたキリスト教に対して、日本の伝統的な秩序や社会制度を守るために出された重要な政策の一つです。
「バテレン」とは?
「バテレン」とは、ポルトガル語の「Padre(パードレ/神父)」が語源で、当時の日本ではカトリック系の宣教師全般を指す言葉として使われていました。
16世紀後半、イエズス会の宣教師たちは日本各地で布教を行い、多くの大名や庶民がキリスト教に改宗していました。
バテレン追放令が出された理由
秀吉は当初、南蛮貿易を重視していたため、キリスト教布教をある程度容認していました。
しかし、次第に以下のような問題が表面化します:
- 仏教寺院の破壊や神社の軽視
- 在来の宗教や文化との対立
- キリシタン大名が領民に改宗を強制する動き
- 奴隷として日本人を海外に連れ去る事例の発覚
これらを背景に、秀吉は国内の秩序と伝統的な価値観を守るため、バテレン追放令を出す決断をしました。
内容と影響
1587年、九州平定の最中に秀吉は宣教師たちに対して以下のような命令を出しました:
- キリスト教の布教は禁止
- 宣教師は20日以内に日本を出国せよ
- 貿易は引き続き認める(南蛮貿易継続)
この命令により、キリスト教は正式に禁教とされますが、当面は本格的な弾圧は行われませんでした。
宣教師の多くも密かに活動を続け、信者数はしばらく増加を続けます。
しかし、この追放令はのちの徳川幕府による本格的な禁教政策(特に島原・天草一揆以降の厳罰化)につながる、最初の一手となったのです。
まとめ
バテレン追放令(1587年)は、豊臣秀吉がキリスト教の布教を制限し、宣教師の国外退去を命じた法令です。
これは、日本の伝統的な宗教や社会秩序を守るために行われた政策であり、のちの禁教政策の先駆けとなりました。
天正 16年(1588年)
1588年(天正16年)に豊臣秀吉が出した法令で、農民などから刀・槍・鉄砲などの武器を取り上げた政策です。
目的
百姓や町人が武器を持って一揆を起こすのを防ぐ
武士と農民の身分をはっきり分け、社会を安定させる
全国を治める秀吉の権威を示す
内容
農民・町人の武器を没収し、大仏建立の材料に使うと説明して回収
武器を隠した者には罰を与える
結果
この令によって、農民は非武装化され、**「武士は戦い、百姓は耕す」**という身分制度が固まりました。
刀狩令は、戦国の乱れを終わらせ、江戸時代の平和な社会の土台をつくった重要な政策です。
天正 17年(1589年)
天正 18年(1590年)
文禄 元年(1593年)
文禄の役とは、1592年(文禄元年)に豊臣秀吉が行った、朝鮮半島への大規模な侵略戦争(第一次朝鮮出兵)のことです。
この戦争は、朝鮮だけでなく、明(中国)との戦いにも発展し、日本・朝鮮・明の三国を巻き込んだ東アジア規模の戦争でした。
背景
豊臣秀吉は天下統一を成し遂げた後、海外進出(「唐入り」)を夢見て、明(中国)の征服を目指していました。
そのためにまず朝鮮を通過点として軍を送り、朝鮮に明への道を開けと要求します。
しかし朝鮮はこれを拒否し、やむなく日本軍が朝鮮に侵攻する形で戦争が始まりました。
戦いの経過
前半:日本軍の快進撃
1592年、秀吉は15万人以上の大軍を朝鮮に送り込みました。
当初は朝鮮軍が不意を突かれ、日本軍は釜山からソウル(漢城)、平壌まで短期間で占領しました。
後半:朝鮮・明の反撃
しかしその後、以下の要因により日本軍は苦戦します:
- 朝鮮水軍の活躍(特に李舜臣(イ・スンシン)による海上封鎖)
- 明軍の参戦(援軍が朝鮮に到着し、日本軍と激戦を展開)
- 兵站(補給線)の困難
- 各地でのゲリラ戦や反撃
結果、日本軍は戦線を維持しきれず、戦況は膠着(こうちゃく)状態に陥ります。
休戦と影響
1593年、日本と明の間で講和交渉が始まり、一時的な休戦となります。これが文禄の役の終結です(ただし、完全な戦争終結ではありません)。
秀吉は講和条件に不満を抱き、数年後に再び出兵することになります(→慶長の役)。
文禄の役の意義と影響
- 日本軍の戦術力の強さと限界が明らかに
- 朝鮮半島に大きな被害(人命、文化財、経済など)
- 明の疲弊を早める要因となり、のちの清の台頭につながる
- 豊臣政権の軍事的・財政的な負担増大
この戦争は日本国内にも大きな影響を残し、豊臣政権の弱体化を早める一因となりました。
まとめ
文禄の役(1592〜1593年)は、豊臣秀吉が朝鮮を侵略し、明の征服を目指した大規模な戦争です。
当初は優勢だった日本軍も、朝鮮・明の反撃により膠着し、最終的には一時休戦に至りました。
この戦争は東アジアの歴史に大きな傷跡を残す出来事でした。
文禄 4年(1596年)
「深沢明神(ふかさわみょうじん)」として広く崇敬を受ける。
慶長 2年(1597年)
慶長の役(けいちょうのえき)とは、1597年(慶長2年)から1598年(慶長3年)にかけて、豊臣秀吉が再び朝鮮に出兵した第二次朝鮮侵略戦争のことです。
これは第一次出兵(文禄の役・1592〜1593年)で決着がつかなかったことから再開された戦いで、前回以上に激しい戦闘が繰り広げられました。
背景
文禄の役の後、日本と明の間で講和交渉が続けられていましたが、交渉は決裂。
豊臣秀吉は講和の内容に不満を抱き、1597年に再び朝鮮侵略を命令します。
戦いの経過
- 日本軍は再び約14万人を朝鮮半島に送り、各地を攻撃しました。
- 前回と違い、朝鮮・明は連携して強く抵抗し、激しい陸上戦・海戦が展開されました。
- 朝鮮水軍の李舜臣(イ・スンシン)の活躍は依然として大きく、日本軍の補給線を大きく妨げました。
- 日本軍は一時的にいくつかの要所を制圧しますが、長期戦に耐えられる体制ではなく、戦線は停滞。
秀吉の死と撤退
1598年8月、豊臣秀吉が病死すると、豊臣政権は戦争継続の意義を失い、全面撤退を決定。
同年、すべての日本軍が朝鮮半島から撤退し、ここに慶長の役は終結します。
慶長の役の影響
- 朝鮮半島に甚大な被害(農地の荒廃、人口減少、文化財の略奪など)
- 明の国力消耗 → のちの清への滅亡を早めた要因に
- 日本国内でも兵力と財政の消耗が大きく、豊臣政権の弱体化が進行
- 秀吉死後の体制に不安が残り、やがて関ヶ原の戦い(1600年)へとつながる
まとめ
慶長の役(1597〜1598年)は、豊臣秀吉が明征服を目指して再び朝鮮に出兵した戦争です。
しかし、朝鮮・明の連合軍に苦戦し、秀吉の死によって日本軍は撤退。秀吉の夢は潰え、戦国時代の終焉と新たな時代(江戸時代)へと歴史は進んでいきました。
慶長 5年(1600年)
関ヶ原の戦いとは、1600年(慶長5年)9月15日に、現在の岐阜県関ケ原町で行われた、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍との間の天下分け目の大戦です。
この戦いに勝利した徳川家康は、やがて征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開くことになります。
つまり関ヶ原の戦いは、戦国時代の終わりと江戸時代の始まりを決定づけた戦いなのです。
背景
1598年、豊臣秀吉が死去。
その後、豊臣政権の内部では、実権をめぐって対立が深まります。
- 東軍:徳川家康を中心とする勢力(譜代大名・外様大名の一部)
- 西軍:石田三成・宇喜多秀家など、豊臣政権の文治派・奉行派大名
両者の対立はやがて軍事衝突に発展し、日本全土を巻き込む決戦となります。
戦いの経過
- 両軍は関ヶ原に布陣し、東軍約7万人・西軍約8万人とほぼ互角の戦力。
- 午前中は西軍が有利に進めていましたが、午後になって状況が一変。
- 西軍に属していた小早川秀秋が突如として東軍に寝返り、西軍の側面を攻撃。
- これをきっかけに他の大名たちも次々と東軍に味方し、西軍は総崩れとなります。
その結果、わずか半日で決着がつき、徳川家康の圧勝となりました。
戦いの結果と影響
- 西軍の中心人物である石田三成は捕らえられて処刑され、他の主力大名も処罰や改易に。
- 家康は、戦後に諸大名を再配置し、自らの支配体制を強化。
- 1603年には征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。
- これにより、日本は約260年続く江戸時代(徳川幕府の時代)へと入ります。
まとめ
関ヶ原の戦い(1600年)は、徳川家康が天下を取るきっかけとなった日本史最大級の内戦です。
この戦いによって戦国時代は終結し、日本は統一され、江戸幕府による平和な時代が始まりました。
慶長 6年(1601年)
慶長 8年(1603年)
徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任したのは、1603年(慶長8年)のことです。
この出来事は、日本における江戸幕府の成立を正式に示すものであり、ここから約260年間続く江戸時代が始まりました。
征夷大将軍とは?
征夷大将軍とは、もともと朝廷が「蝦夷(えみし)」を討つために任命した軍の最高指揮官の称号ですが、鎌倉時代以降は武家政権の頂点に立つ存在となりました。
- 源頼朝(鎌倉幕府)
- 足利尊氏(室町幕府)
- そして、徳川家康(江戸幕府)
このように、征夷大将軍は「幕府」を開く上での正統性を示す重要な役職です。
家康が将軍になるまでの流れ
- 1598年:豊臣秀吉が死去
- 1600年:関ヶ原の戦いで徳川家康が西軍を破る
- 1603年:後陽成天皇より征夷大将軍に任命される
こうして、家康は京都の朝廷から正式に政治の最高権力者として認められたことになります。
江戸幕府の成立と意義
- 家康は将軍就任後、政治の中心を江戸(現在の東京)に置きました。
- 全国の大名を統制し、幕藩体制を築いていきます。
- 武家による支配を制度化し、以後260年以上の平和と秩序の時代(江戸時代)が始まりました。
征夷大将軍就任の影響
- 家康の政治支配が名実ともに全国へ確立
- 豊臣家の権威が次第に衰退
- 日本は戦乱の時代を終え、安定と繁栄の時代へ
- 経済、文化、都市の発展が進む
まとめ
1603年、徳川家康が征夷大将軍に任命されたことで、江戸幕府が成立し、戦国時代は終わりを告げました。
この就任は、日本に長期の安定と発展をもたらす江戸時代の幕開けを意味しています。
慶長 9年(1604年)
家康公自らが描いた自画像と「真の太刀」が寄付され、西郷の局の17回忌法要が営まれる。
慶長 12年(1607年)
※主な参考資料
- 各地、各施設などのパンフレットやWEBサイト(個別に記載)
- 史料にみる日本の近代(国立国会図書館WEBサイト)
- 戦後70年へ-日本の戦争と戦後の歩み-年表に関する最新ニュース(朝日新聞WEBサイト)
- ウィキペディア
データの表示順位
各データは以下の順で並んでいます。
- 時代1(大分類:古代、中世など)
- 時代2(小分類:平安時代、江戸時代など)
- 年(元号による分類)
- 日本の歴史(教科書などに出てくる歴史の大きな事象)
- 月
- 日
- 都道府県
- 地域
- 市区町村
- 場所
軸となる”日本の歴史”部分は、年ごとのデータの中で優先的に最初の方に表示するようにしました。
