
「この時代には何があったんだろう?」、「この時期にこの地方ではどういうことが起きていたんだろう?」。
そういった些細な疑問を解決したくてこのページを作ってみました。
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歴史データ
中世
室町時代(戦国時代)
天文 12年(1543年)
鉄砲伝来とは、1543年(天文12年)に、ポルトガル人が日本に初めて鉄砲(火縄銃)を伝えた出来事を指します。これにより、日本の戦いのあり方が大きく変わっていきました。
どこに伝わったのか?
場所は種子島(たねがしま)という、現在の鹿児島県にある南方の小さな島です。
この年、中国の船に乗っていたポルトガル人が種子島に漂着し、地元の領主・種子島時尭(ときたか)に鉄砲を見せたのがきっかけです。
日本での鉄砲の広まり
種子島の鍛冶職人たちは、その鉄砲を見て驚き、すぐに模倣して作ろうとしました。当時の技術では火縄銃の複雑な構造、とくに「ねじ」の再現に苦労したものの、数年のうちに国産の鉄砲が量産されるようになります。
その後、戦国大名たちはこぞって鉄砲を導入し、軍事力を強化していきました。特に有名なのが、織田信長による長篠の戦い(1575年)での鉄砲の大量使用です。
鉄砲伝来の影響
鉄砲の伝来によって、日本の戦術は以下のように大きく変わりました。
- 騎馬武者中心の戦い → 足軽中心の鉄砲隊へ
- 防御を意識した城づくり(城郭建築)が発達
- 武士階級の在り方も変化し始める
つまり、鉄砲の登場は戦国時代の勢力図を塗り替えるほどの革命的な出来事だったのです。
まとめ
1543年、種子島に伝わった鉄砲は、戦国時代の日本に急速に広まり、戦の形や社会の構造までをも変えました。鉄砲伝来は、日本史における重要な転換点の一つです。
天文 18年(1549年)
キリスト教伝来とは、1549年(天文18年)に、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にやってきて、キリスト教を伝えた出来事を指します。これは日本と西洋の文化交流の大きな始まりでもありました。
誰が伝えたのか?
キリスト教を日本に伝えたのは、フランシスコ・ザビエルというスペイン出身のカトリックの宣教師です。
彼はポルトガルの船に乗って、日本の鹿児島に上陸しました。
キリスト教の広まり
ザビエルはまず鹿児島の島津氏のもとで布教を始め、その後、山口や豊後(現在の大分県)などの各地を訪れ、日本語を学びながらキリスト教の教えを説きました。
当時の戦国時代の大名たちは、ヨーロッパとの貿易(南蛮貿易)にも興味を持っていたため、キリスト教の布教を受け入れることで、鉄砲や火薬、絹織物などの利益も得ようとしていました。
その結果、大友宗麟(おおとも そうりん)や大村純忠(おおむら すみただ)など、実際にキリスト教に改宗する大名も現れ、信者は一時的に15万人を超えるほどに増加しました。
その後の弾圧
しかし、やがて豊臣秀吉や江戸幕府は、キリスト教が日本の支配体制にとって危険な思想だとみなし、弾圧を始めます。
- 1587年:秀吉が宣教師追放令を出す
- 1612年以降:徳川幕府による厳しい禁教政策
- 1637年:島原・天草一揆(多くのキリスト教徒が参加)→ 徹底的な弾圧へ
このように、キリスト教は一時広まったものの、江戸時代を通じて地下に潜伏する「隠れキリシタン」の存在となっていきます。
まとめ
キリスト教伝来は、1549年にフランシスコ・ザビエルによって始まりました。
初めは南蛮文化とともに広まりましたが、後に幕府の弾圧によって禁止され、日本の宗教や文化、外交政策に大きな影響を与えた重要な歴史的出来事です。
天文 19年(1550年)
天文 24年(1555年)
永禄 2年(1559年)
永禄 3年(1560年)
桶狭間の戦いとは、1560年(永禄3年)に起きた戦国時代の重要な戦いで、織田信長が、当時圧倒的な軍勢を誇っていた今川義元を破った歴史的な奇襲戦です。
この戦いによって、信長は一躍「戦国の風雲児」として全国にその名を知られることになります。
背景
当時、今川義元は東海地方の有力大名で、約25,000人の大軍を率いて上洛(京都進軍)を目指していました。その進軍ルートの途中にあったのが、尾張(現在の愛知県西部)を治める織田信長の領地です。
信長の軍勢はわずか2,000〜3,000人程度とされ、誰もが「織田家は滅びるだろう」と考えていました。
戦いの経過
今川軍が尾張に侵攻を開始し、義元は桶狭間という地で休息中でした。
このとき信長は、敵の油断を見抜き、わずかな手勢を率いて奇襲作戦を決行します。
信長は地形や天候(突然の豪雨)を味方にし、敵の本陣を急襲。今川義元を討ち取り、大勝利を収めました。
戦いの意義
桶狭間の戦いは、ただの「弱者が強者に勝った戦い」ではありません。
- 織田信長の戦術的才能と決断力が示された戦い
- 旧体制の象徴であった今川家が衰退し、新たな時代の幕開けに
- 信長が後の全国統一へと歩み出す転機となる
この戦いは、戦国時代の流れを大きく変える転換点だったのです。
まとめ
桶狭間の戦い(1560年)は、織田信長が今川義元の大軍をわずかな兵で破った伝説的な奇襲戦です。
この勝利により、信長は名を上げ、のちの天下統一への第一歩を踏み出しました。
永禄 4年(1561年)
永禄 8年(1565年)
永禄 11年(1568年)
元亀 元年(1570年)
姉川の戦いは、1570年(元亀元年)に起きた、織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉義景の連合軍との間で行われた戦いです。
場所は現在の滋賀県米原市と長浜市にまたがる姉川流域で、戦国時代を代表する大規模な戦いの一つです。
背景
当時、織田信長は勢力を広げ、足利義昭を奉じて上洛を果たした後、近江の浅井氏や越前の朝倉氏と対立するようになっていました。
本来、浅井長政は信長の妹・お市の方を正室に迎えており、同盟関係にありました。
しかし、信長が浅井と関係の深い朝倉氏を攻撃したことで、浅井長政は信長を裏切り、朝倉とともに信長と敵対します。
戦いの経過
1570年7月、織田・徳川連合軍は、浅井・朝倉軍と姉川(あねがわ)沿いで激突します。
- 織田・徳川軍:約3万人
- 浅井・朝倉軍:約2万人
この戦いでは、姉川の北岸で浅井軍が徳川軍と、南岸で朝倉軍が織田軍と交戦しました。
最初は浅井・朝倉軍が優勢だったものの、徳川家康軍の奮戦により浅井軍の側面を突く形で形勢が逆転。
結果的に織田・徳川軍が勝利し、浅井・朝倉軍は退却しました。
戦いの意義
- 浅井・朝倉連合に大打撃を与え、信長の近江支配を安定させた
- 後の浅井氏滅亡(1573年)へのきっかけとなった
- 徳川家康の軍事的才能が評価された戦いでもある
また、この戦いは戦国大名間の同盟・裏切り・戦略の複雑さを象徴しており、戦国時代中期の重要な合戦とされています。
まとめ
姉川の戦い(1570年)は、織田信長・徳川家康連合軍が、浅井長政・朝倉義景連合軍を破った合戦です。
信長にとって近江制圧の重要な一歩となり、戦国の勢力図を大きく動かした戦いでした。
「後北条氏虎之印朱印状」による。
9月12日
戦国時代の後期(1570年〜1580年)にかけて、大阪の「石山本願寺」(現在の大阪城の場所)をめぐって起こった、織田信長と浄土真宗本願寺勢力(石山本願寺・顕如)との長期戦です。
背景
戦国時代には、各地で一向宗(浄土真宗)の門徒が「一向一揆」と呼ばれる自治的な武装勢力を形成していました。彼らは「信仰の力」をもとに大名や領主に抵抗し、北陸や近畿の各地で強大な勢力となっていました。
その中心が、**本願寺顕如(けんにょ)**のもとにあった石山本願寺(摂津国・現在の大阪市中央区)です。顕如はここを本拠地として全国の門徒を統率していました。
戦いの経過
1570年(元亀元年)
信長が勢力を拡大する中で、畿内を掌握しようとした際、本願寺顕如は信長に抵抗を決意。越前の朝倉氏・近江の浅井氏・武田氏・毛利氏など、反信長勢力と結んで抗戦しました。これが「石山合戦」の始まりです。
1570〜1576年ごろ
信長は度々石山本願寺を攻めましたが、堅固な要塞と水上交通を押さえる毛利水軍の支援により、容易には落とせませんでした。顕如側は紀伊・伊勢・越前・加賀の一向一揆と連携し、広範な反信長戦線を形成します。
1576年(天正4年)
信長は大坂湾の制海権を得るため、九鬼嘉隆らに命じて鉄甲船(鉄で装甲された大型船)を建造。毛利水軍を破り、兵糧の補給路を断ちます。これにより本願寺は次第に孤立しました。
1580年(天正8年)
長年にわたる包囲戦の末、顕如は降伏を決断。和議が成立し、石山本願寺を明け渡しました。ここに**10年に及ぶ大戦「石山合戦」**が終結します。
結果と影響
石山本願寺の跡地には、後に豊臣秀吉が大阪城を築城します。
本願寺勢力は一時衰退しましたが、後に顕如の子・教如(きょうにょ)と東西本願寺に分裂します(「本願寺分派」)。
この合戦を通じて、信長は畿内支配を確立し、全国統一への基盤を固めました。
まとめ
石山合戦は、
「宗教勢力と戦国大名の最大規模の対立」
「大阪城誕生の原点」
とも言える戦いであり、日本史上でも特に長期にわたった宗教戦争として知られています。
元亀 2年(1571年)
比叡山焼き討ちとは、1571年(元亀2年)に、織田信長が、滋賀県にある比叡山延暦寺(えんりゃくじ)を攻撃・焼き払った事件です。
これは単なる宗教施設の攻撃ではなく、信長の宗教勢力に対する強硬姿勢を象徴する出来事として、日本史における重大事件の一つとされています。
比叡山とは?
比叡山は古来より仏教の聖地であり、延暦寺は天台宗の総本山として知られています。
平安時代から多くの僧侶や学僧を輩出し、「日本仏教の母山」とも称されていました。
しかし、戦国時代になると延暦寺は、宗教施設であると同時に軍事的な力を持つ宗教勢力として変化しており、僧兵(武装した僧侶)を抱え、政治・軍事にも関与していました。
なぜ焼き討ちされたのか?
織田信長が比叡山を焼き討ちした主な理由は次のとおりです:
- 敵対勢力への協力:延暦寺は、信長と対立していた朝倉義景や浅井長政を庇護・支援していた。
- 宗教権力への警戒:信長は中央集権を目指す中で、武力と経済力を持つ宗教勢力を脅威とみなしていた。
- 比叡山の戦略的位置:比叡山は京都や近江を見下ろす要所にあり、軍事的にも無視できなかった。
信長は延暦寺に中立を求めたものの、拒否されたため、最終的に全面的な攻撃を決行します。
焼き討ちの結果
1571年10月、信長の軍勢は比叡山に攻め込み、僧侶・僧兵・民衆を含む多くの人々を容赦なく殺害、延暦寺の堂塔をことごとく焼き尽くしました。
この事件による犠牲者は数千人以上ともいわれ、信長の冷酷な一面を強く印象づけた歴史的事件です。
歴史的意義
- 信長の「宗教より政治・武力を優先する」姿勢が明確になった
- 宗教勢力の政治的影響力が弱まり、戦国大名の支配が強化された
- のちの本願寺や一向一揆との衝突への流れを作る
まとめ
比叡山焼き討ち(1571年)は、織田信長が強大な宗教勢力である延暦寺を武力で排除した事件であり、戦国時代の宗教と権力の関係を大きく変えた分岐点となりました。
元亀 3年(1572年)
12月22日
武田軍が犀ヶ崖付近で野営。徳川軍が夜襲を行い、多くの武田兵が崖に転落したとの伝承が生まれる
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、戦国時代の元亀3年12月22日(西暦1573年2月4日)、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市周辺)で起こった合戦です。徳川家康・織田信長連合軍と、甲斐国の戦国大名・武田信玄の軍勢が激突しました。
当時、武田信玄は西上作戦と呼ばれる大規模な遠征を行い、上洛を目指して遠江へ進軍していました。これに対し、浜松城を本拠とする徳川家康は、同盟関係にあった織田信長の援軍を得て、武田軍を迎え撃つ決断をします。家康は籠城ではなく、野戦での決戦を選び、三方ヶ原台地で武田軍と対峙しました。
しかし戦いは、徳川・織田軍にとって厳しい結果となります。武田軍は騎馬隊を中心とした機動力と、巧みな戦術で徳川軍を圧倒しました。徳川軍は総崩れとなり、家康自身も命からがら浜松城へ敗走します。このときの敗北は家康の生涯でも最大級の敗戦とされ、後に自戒のため「しかみ像(歯を食いしばった自画像)」を描かせたという逸話も伝えられています。
戦いの後、家康は浜松城に戻ると、あえて城門を開き、かがり火を焚いて虚勢を張ることで、武田軍の追撃を防いだといわれます。また、その夜に徳川軍が武田軍を夜襲したという伝承も残り、これが犀ヶ崖(さいががい)の伝説や、遠州大念仏の起源と結び付けて語られることもあります。
三方ヶ原の戦いは、徳川家康にとって大敗ではありましたが、この経験は後の戦い方や政治姿勢に大きな影響を与えました。無謀な戦いを戒め、忍耐と現実的な判断を重視する姿勢を強める契機となり、最終的に天下人へと成長していく重要な転換点となった戦いとして、日本史上きわめて重要な合戦の一つと位置付けられています。
元亀 4年(1573年)
室町幕府の滅亡とは、1573年(天正元年)、織田信長によって第15代将軍足利義昭(あしかが よしあき)が京都から追放され、約240年続いた室町幕府が終わりを迎えた出来事を指します。
室町幕府とは?
室町幕府は、1338年に足利尊氏(たかうじ)によって創設された武家政権で、京都の室町に政庁を置いたことから「室町幕府」と呼ばれます。
南北朝時代、守護大名の支配、応仁の乱などを経て、15世紀後半からは実質的に幕府の力は弱体化していきました。
滅亡までの流れ
- 信長と足利義昭の関係
織田信長は足利義昭を奉じて上洛(1568年)し、京都の支配を確立しました。当初は信長の力を借りて将軍になった義昭ですが、次第に信長に対抗しようと画策し始めます。 - 信長包囲網の形成
義昭は、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、本願寺などと連携し、いわゆる「信長包囲網」を構築して信長に対抗しました。 - 信長の反撃と義昭追放
しかし、信長は順次敵を撃破。1573年には武田信玄が病死し、包囲網は崩壊。ついに信長は、将軍義昭の御所を攻撃し、義昭は京都から追放され、ここに室町幕府は名実ともに滅亡しました。
滅亡の意義
- 武士政権の新しい形(戦国大名中心)が確立される
- 中央集権的な将軍権力は終わり、戦国時代が本格化
- 織田信長が天下統一の中心人物として台頭
つまり、室町幕府の滅亡は単なる政権交代ではなく、中世から近世への大転換を意味する出来事だったのです。
まとめ
1573年、織田信長によって足利義昭が追放され、約240年続いた室町幕府は終焉を迎えました。
この出来事は、戦国時代の混乱を経て、新しい時代—信長・秀吉・家康の天下統一へと進む大きな転機となりました。
安土桃山時代
天正 3年(1575年)
長篠の合戦とは、1575年(天正3年)に、現在の愛知県新城市で行われた合戦で、織田信長・徳川家康の連合軍が、戦国最強と謳われた武田勝頼(たけだ かつより)の軍を破った戦いです。
この戦いは、鉄砲を大量に活用した戦術が初めて本格的に成功した戦として、戦国時代における軍事革命とも呼ばれます。
背景
武田勝頼は、父・武田信玄の死後、その遺志を継ぎ、織田・徳川領への侵攻を続けていました。
1575年、勝頼は三河の国(現在の愛知県東部)にある長篠城を攻撃。この城を守っていた徳川方が救援を要請したことから、信長と家康が連合軍を結成して迎え撃つことになりました。
戦いの経過
- 武田軍:約15,000人
- 織田・徳川連合軍:約38,000人
信長は、「馬防柵(ばぼうさく)」と呼ばれる木の柵を戦場に設け、その背後に約3,000丁の鉄砲隊を三段構えにして配置しました。
これは、鉄砲を交互に連射することによって絶え間ない攻撃を加える戦術で、武田の騎馬隊の突撃を防ぐことに成功しました。
結果、武田軍は大敗し、多くの重臣や兵を失います。
この敗戦によって、武田家の衰退が決定的となります。
戦いの意義
- 鉄砲の戦術的価値が証明された戦い
- 武田の騎馬軍団神話が崩壊
- 信長が戦国時代の先進的な軍事リーダーとして地位を確立
- 武田家滅亡(1582年)への大きな一歩
長篠の合戦は、旧来の戦法(白兵戦・騎馬戦)に対して、近代的な火器戦術が勝利した象徴的な戦いでもあります。
まとめ
1575年の長篠の合戦は、織田・徳川連合軍が鉄砲と戦術を駆使して、強大な武田軍を打ち破った歴史的な戦いです。
この勝利は、信長の軍事的革新を象徴し、日本の戦いの形を大きく変える転換点となりました。
天正 7年(1579年)
天正 8年(1580年)
天正 9年(1581年)
天正 10年(1582年)
※主な参考資料
- 各地、各施設などのパンフレットやWEBサイト(個別に記載)
- 史料にみる日本の近代(国立国会図書館WEBサイト)
- 戦後70年へ-日本の戦争と戦後の歩み-年表に関する最新ニュース(朝日新聞WEBサイト)
- ウィキペディア
データの表示順位
各データは以下の順で並んでいます。
- 時代1(大分類:古代、中世など)
- 時代2(小分類:平安時代、江戸時代など)
- 年(元号による分類)
- 日本の歴史(教科書などに出てくる歴史の大きな事象)
- 月
- 日
- 都道府県
- 地域
- 市区町村
- 場所
軸となる”日本の歴史”部分は、年ごとのデータの中で優先的に最初の方に表示するようにしました。
