
「この時代には何があったんだろう?」、「この時期にこの地方ではどういうことが起きていたんだろう?」。
そういった些細な疑問を解決したくてこのページを作ってみました。
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歴史データ
中世
室町時代(南北朝時代)
延元 元年(1336年)
建武式目とは、1336年(建武3年/延元元年)に足利尊氏(あしかがたかうじ)が制定した、新しい武家政権の政治方針を示した基本法(施政方針)です。
全17条からなり、鎌倉幕府滅亡後の混乱を正し、武家政権の秩序を回復するために示されました。
この法令は、のちの室町幕府の政治理念の土台となりました。
制定の背景
1333年に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まりました。
しかし、天皇中心の政治は公家に偏っており、武士たちへの恩賞が不公平であったため、多くの武士が不満を抱きました。
その中でも、幕府滅亡の功労者であった足利尊氏が次第に朝廷と対立し、1336年に京都を制圧して独自の政治を開始します。
このとき、尊氏は「正しい政治の道筋」を示すために発表したのが建武式目です。
したがって、この文書は室町幕府創設の基本方針としての意味を持ちます。
建武式目の内容
建武式目は、法律というよりも「政治の心得」や「統治の方針」を示したものです。主な内容は次の通りです。
- 公平な政治の実現
不正な訴訟や賄賂を禁止し、公平な裁判を行うことを重視しました。 - 質素・倹約の推奨
贅沢を慎み、質素な生活を行うように求め、政治の清廉さを守ろうとしました。 - 寺社の保護
神社や寺院を尊重し、信仰と道徳を通じて社会秩序を保つことを重んじました。 - 土地・領地制度の安定
鎌倉幕府以来の地頭・守護制度を維持し、武士による支配体制の継続を図りました。 - 公家政治との調和
公家(朝廷)の伝統を尊重しながらも、実務は武士が担う「公武の協調」を理想としました。
意義
建武式目は、後醍醐天皇の理想主義的な「建武の新政」とは対照的に、現実的で武士社会に即した政治方針を示した点で重要です。
この方針により、足利尊氏の新政権は武士たちの支持を集め、やがて室町幕府の成立(1338年)へとつながりました。
つまり、建武式目は「鎌倉幕府の伝統を引き継ぎながら、新たな武家政権を再建するための宣言文」といえるのです。
まとめ
建武式目は、1336年に足利尊氏が制定した武家政権の政治方針であり、室町幕府の基本理念を示した文書です。
鎌倉幕府の経験を踏まえて、公正で質素な政治を行うことを誓い、混乱した時代に新たな秩序を築こうとした重要な歴史的文書です。
延元 3年(1338年)
足利尊氏の征夷大将軍就任とは、1338年(延元3年/暦応元年)に、足利尊氏が朝廷から征夷大将軍に任命され、室町幕府を正式に開いた出来事です。
この出来事により、鎌倉幕府滅亡後の混乱が終息し、新たな武家政権・室町幕府が誕生しました。
背景
1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は自ら政治を行う「建武の新政」を始めました。
しかし、その政治は公家中心で、武士たちの功績に見合った恩賞が与えられなかったため、多くの武士が不満を持ちます。
その中で、倒幕の中心人物であった足利尊氏も次第に後醍醐天皇と対立し、1336年には兵を挙げて京都を制圧しました。
尊氏は、後醍醐天皇にかわって「光明天皇」を擁立し、朝廷を分裂させます。これが南北朝の対立の始まりです。
征夷大将軍への就任
1338年、光明天皇は足利尊氏の功績を認め、彼を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命しました。
この官職は、古くは平安時代から「朝廷の命を受けて反乱や外敵を討伐する最高司令官」を意味しており、
武家政権の正統な権威を象徴する地位でした。
尊氏はこの任命を受けて、京都の室町に政治の拠点を置き、室町幕府(むろまちばくふ)を開きました。
こうして、鎌倉幕府に続く第2の武家政権が誕生したのです。
意義
足利尊氏の征夷大将軍就任には、次のような歴史的意義があります。
- 新たな武家政権の誕生
鎌倉幕府滅亡後の混乱を収め、室町幕府という新たな秩序を確立しました。 - 南北朝時代の幕開け
尊氏が光明天皇を立て、後醍醐天皇が吉野に逃れたことで、南北二つの朝廷が並び立つ時代が始まりました。 - 公武の両立を重視した政治体制
尊氏は朝廷の権威を形式的に保ちながら、実際の政治権力を武家が握るという「公武両権の体制」を築きました。
これは、後の日本の政治の基本構造にも影響を与えました。
まとめ
1338年、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され、京都の室町に幕府を開いた。
これによって室町幕府が成立し、鎌倉幕府に次ぐ第二の武家政権が誕生した。
その一方で、南北朝の対立が始まり、日本は再び二つの政権が並び立つ時代へと突入した。
興国 4年(1343年)
正平 15年(1361年)
正平 22年(1368年)
規模を拡大し、杉木立に囲まれた壮麗な寺院へと発展。
室町幕府第3代将軍・足利義満の代に「関東十刹」の一に列せられ、「天長山國清萬年禪寺」と号する。
明徳 元年(1390年)
元中 9年(1392年)
南北朝統一とは、1392年(明徳3年)に、60年近く続いた朝廷の分裂(南北朝の争い)を終結させ、京都の北朝と吉野の南朝を統一した出来事です。
この統一によって、日本は再び一つの朝廷のもとにまとまり、南北朝時代(1336〜1392)が終わりました。
この大業を成し遂げたのが、室町幕府3代将軍 足利義満(よしみつ) です。
背景
1336年、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が「建武の新政」を行いましたが、失敗に終わり、朝廷は2つに分裂しました。
- 南朝(正統の皇統):後醍醐天皇が吉野(奈良)に逃れて開いた朝廷
- 北朝(幕府支持の皇統):足利尊氏が京都に立てた光明天皇を中心とする朝廷
以後、およそ半世紀にわたり、両朝はそれぞれ天皇を立てて政権を争う「南北朝の動乱時代」が続きました。
戦乱や政治の混乱が長引く中で、室町幕府の勢力が次第に強まり、南朝は次第に衰退していきます。
義満による統一への動き
足利義満は、1368年に将軍に就任したあと、強力な中央集権体制を築き、武家だけでなく朝廷や公家社会にも影響力を拡大しました。
義満は争いの長期化を憂い、国内の安定と幕府の権威強化を目的として、南北両朝の和解を進めます。
1392年、義満の仲介により、南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が京都に帰還し、北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)に三種の神器(さんしゅのじんぎ)を譲る形で統一が実現しました。
これによって、正式に天皇の系統は北朝側(持明院統)に一本化され、日本の朝廷は再びひとつとなりました。
統一の意義
- 約60年に及ぶ内乱の終結
南北朝の分裂は国内の政治・社会を混乱させていましたが、義満の調停によって平和が回復しました。 - 幕府の権威の頂点
この統一は、足利義満が朝廷を完全に支配下に置いたことを意味し、室町幕府の政治的権威が最高潮に達したことを示します。
義満はその後、「太政大臣」にまで就任し、まさに「武家による王朝政治」の完成を象徴する存在となりました。 - 南朝の皇位継承問題
和約の際、「今後は南北交代で天皇を出す」という約束がなされましたが、実際には守られず、以後の天皇はすべて北朝系が継承しました。
そのため、南朝側は後に「正統の皇統」として尊重されるようになります。
まとめ
1392年、足利義満の調停により、南北に分かれていた朝廷が統一され、日本は再び一つの天皇のもとに戻った。
この南北朝統一は、室町幕府の権威を絶頂に導くとともに、長期にわたる戦乱を終わらせた歴史的な出来事である。
義満は政治・文化の両面で日本を安定させ、室町時代の黄金期を築く礎を築いた。
室町時代
正長 元年(1428年)
伽藍は中国・天台山の國清寺を模したものと伝わる。
永享 4年(1432年)
嘉吉 元年(1441年)
将軍足利義教(あしかが よしのり)の暗殺事件をきっかけとする政治的・軍事的な争乱です。室町幕府の支配体制を大きく揺るがした事件として知られています。
背景
足利義教は、六代将軍義持の弟で、兄の死後に僧侶から還俗して将軍に就任しました。義教は強権的な政治を行い、有力守護大名たちを徹底的に抑え込もうとしました。彼の専制的な政治は「万人恐怖」とも呼ばれ、畿内や西国の大名たちの不満を募らせました。
事件の発端
嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨・備前・美作の守護であった**赤松満祐(あかまつ みつすけ)**は、自邸(播磨の赤松邸)に足利義教を招いて饗応し、その席上で義教を暗殺しました。
この事件は、幕府史上前例のない将軍暗殺という大事件であり、「嘉吉の変(嘉吉の乱)」と呼ばれます。
経過
義教暗殺後、幕府はただちに赤松氏を「逆臣」として討伐。山名宗全(後の山名持豊)らが幕府軍を率いて赤松氏領へ攻め込みました。
赤松満祐は一時は籠城しましたが、最終的に城を落とされ自害。赤松氏は一族滅亡に追い込まれました。
室町時代(戦国時代)
応仁 元年(1467年)
応仁の乱(おうにんのらん)は、1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)までの11年間にわたって京都を中心に続いた、全国的な内乱です。
室町幕府の有力守護(大名)たちが東軍と西軍に分かれて争い、日本全土を戦乱に巻き込んだ戦国時代の始まりとなった重要な事件です。
背景
15世紀半ばの室町幕府は、3代将軍足利義満の時代に最盛期を迎えましたが、その後は政治の混乱が進みました。
8代将軍足利義政(あしかが よしまさ)の時代になると、次のような問題が重なります。
- 将軍の後継者争い
義政には子がなく、弟の義視(よしみ)を後継に決めていましたが、のちに息子の義尚(よしひさ)が誕生したことで、後継問題が発生します。 - 有力守護の対立
管領(幕府の最高補佐役)であった細川勝元(ほそかわ かつもと)と、幕府の重臣山名宗全(やまな そうぜん)が対立。
将軍家の後継問題をめぐって、両者がそれぞれ別の後継者を支持し、幕府の権力争いが全国の守護大名を巻き込む形になりました。
戦いの経過
1467年、京都で細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍が衝突し、応仁の乱が勃発します。
- 東軍(細川勝元側):足利義視を支持
- 西軍(山名宗全側):足利義尚を支持
戦いは次第に全国の諸大名を巻き込み、京都は焼け野原となり、多くの貴族や町人が地方へ逃れました。
戦闘は一進一退で決着がつかず、1477年に山名宗全と細川勝元の両名が相次いで亡くなったことで、ようやく戦いが終息しました。
結果と影響
応仁の乱は、勝敗がはっきりしないまま終わりましたが、日本社会に深刻な影響を与えました。
- 室町幕府の権威の失墜
将軍や幕府の命令が全国に届かなくなり、守護大名が独立して自国を支配するようになりました。 - 戦国時代の幕開け
各地の守護や国人(地方豪族)が自立し、互いに争うようになりました。
これによって、戦国大名の時代(戦国時代)が始まります。 - 京都の荒廃と文化の地方分散
京都は焼け野原となり、多くの文化人が地方へ逃れたことで、地方に文化が広がるきっかけにもなりました。
まとめ
応仁の乱(1467〜1477)は、室町幕府内部の権力争いが全国の守護大名を巻き込んだ大乱である。
この戦乱によって幕府の支配力は崩壊し、各地の武士が自立する「戦国時代」が始まった。
応仁の乱は、日本の中世から戦国へと時代が転換する大きな分岐点となった。
文明 17年(1485年)
山城の国一揆とは、15世紀後半の戦国時代初期に、**京都南部の山城国(現在の京都府南部)**で発生した、国人(こくじん)や農民たちが主導した自治的な政治運動のことです。
背景
応仁の乱(1467〜1477年)の混乱により、中央政権の統制力が弱まった結果、各地で在地勢力(地元の武士や農民)が自分たちの土地や生活を守ろうと自立を始めました。山城国もその一つで、戦乱によって領主の支配が揺らいでいた中、国人や土着農民が連携し、「自分たちの国は自分たちで治める」という動きが高まりました。
一揆の内容
1485年(文明17年)、山城国では守護職をめぐる争いが絶えず、混乱が続いていました。この状況に対して、地元の武士や農民たちが集結し、守護大名である畠山氏を国外に退去させ、自分たちの手で政治を行う「国一揆」を結成しました。
この一揆では、国人たちが協議して合議制で国政を運営し、約8年間にわたり守護を排除した自治的な支配を実現しました。これは日本の歴史においても非常に珍しい事例で、戦国時代の民衆運動の象徴ともされています。
その後
一揆は1493年ごろには終息し、山城国には再び外部の大名の支配が及ぶようになりますが、この山城の国一揆は、「民衆が武力と組織で政治に参加・介入した」先駆的な出来事として評価されています。
まとめ
山城の国一揆は、戦国時代初期の混乱の中で、地元の武士や農民が一致団結して自らの地域を治めた画期的な運動です。日本の地方自治や民衆参加の歴史において、非常に重要な意義を持っています。
長享 2年(1488年)
伊勢新九郎盛時(いせ しんくろう もりとき)は、のちに北条早雲(ほうじょう そううん)と呼ばれる戦国時代初期の武将で、後の後北条氏(小田原北条氏)の祖とされる人物です。
彼が興国寺城(こうこくじじょう/静岡県沼津市)の城主となったことは、早雲が本格的に武士としての地位を確立し、戦国大名としての道を歩み始める重要な転機となりました。
背景
伊勢盛時は、もとは京都の幕府奉公人(政務官僚)で、伊勢氏という将軍家に仕える家柄の出身でした。
彼は当初、室町幕府の政務に関わる立場にあり、武士というよりも政治・行政に長けた人物として知られていました。
しかし、応仁の乱(1467〜1477)の混乱によって京都の政治が崩壊し、盛時は次第に地方へと勢力を移します。
その後、駿河国(現・静岡県)の守護である今川義忠の遺児・今川氏親(いまがわうじちか)の後見人となったことから、駿河に深く関わるようになりました。
興国寺城主となる経緯
文明年間(15世紀後半)、伊勢盛時は今川家の家臣として活躍し、義忠の後を継いだ氏親を補佐する立場にありました。
この功績により、彼は駿河国の東部、現在の沼津市原地区にあった興国寺城を与えられ、興国寺城主となります。
このとき、盛時はまだ「北条早雲」とは名乗っておらず、「伊勢新九郎」として知られていました。
興国寺城を拠点に、盛時は駿河・伊豆・相模の政治情勢を見極めながら、次第に独自の軍事力を整えていきます。
意義
伊勢新九郎盛時が興国寺城主となったことには、いくつかの重要な意味があります。
- 地方進出の第一歩
京都の幕府官僚から地方の実力武士へと転身する契機であり、後の戦国大名化への第一歩でした。 - 伊豆・相模進出の拠点確保
興国寺城は駿河東部に位置し、伊豆国や相模国への進出に適した地理的条件を備えていました。
ここから盛時は、伊豆の内乱に介入し、最終的には伊豆を制圧して独立勢力を築くことになります。 - 戦国時代の幕開けを象徴
盛時が興国寺城を拠点に活動を始めたことは、守護や幕府の権威が衰え、地方の武士が自立して国を治める「戦国時代」の始まりを象徴する出来事でもあります。
まとめ
伊勢新九郎盛時(北条早雲)が興国寺城主となったのは、京都の幕府官僚から地方の武将へと転身した大きな転機である。
この城を拠点に彼は伊豆・相模へ勢力を広げ、やがて後北条氏の基礎を築いた。
そのため、興国寺城主就任は、戦国大名・北条早雲誕生への第一歩であり、戦国時代の幕開けを告げる重要な出来事といえる。
延徳 3年(1491年)
延徳 4年(1492年)
創建から約200年の隆盛に終止符を打つ。
明応 2年(1493年)
明応 7年(1498年)
永正 3年(1506年)
永正 4年(1507年)
鎌倉光明寺九世祐祟、駿府に龍泉寺(法台院)を起立す。
永正 7年(1510年)
※主な参考資料
- 各地、各施設などのパンフレットやWEBサイト(個別に記載)
- 史料にみる日本の近代(国立国会図書館WEBサイト)
- 戦後70年へ-日本の戦争と戦後の歩み-年表に関する最新ニュース(朝日新聞WEBサイト)
- ウィキペディア
データの表示順位
各データは以下の順で並んでいます。
- 時代1(大分類:古代、中世など)
- 時代2(小分類:平安時代、江戸時代など)
- 年(元号による分類)
- 日本の歴史(教科書などに出てくる歴史の大きな事象)
- 月
- 日
- 都道府県
- 地域
- 市区町村
- 場所
軸となる”日本の歴史”部分は、年ごとのデータの中で優先的に最初の方に表示するようにしました。
