
「この時代には何があったんだろう?」、「この時期にこの地方ではどういうことが起きていたんだろう?」。
そういった些細な疑問を解決したくてこのページを作ってみました。
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歴史データ
近世
江戸時代
天保 8年(1838年)
大塩平八郎の乱は、1837年(天保8年)に大坂(現在の大阪市)で発生した、江戸時代では非常に珍しい元役人による武力蜂起(反乱)です。
発端となったのは、元大坂町奉行所の与力(よりき)であった大塩平八郎(おおしお へいはちろう)が、困窮する庶民を救うために幕府の腐敗と無策に反発して挙兵したことです。
背景
- 天保の大飢饉
1830年代、日本各地を襲った天保の大飢饉により、庶民は極度の貧困と飢えに苦しんでいました。特に都市部の困窮は深刻で、米価の高騰と食糧不足が人々を苦しめていました。 - 幕府や大名の対応の遅れ
裕福な商人たちは米を買い占めて利益を上げる一方で、幕府や地方役人たちは適切な救済措置を取らず、庶民の怒りが高まっていました。 - 大塩の正義感と儒学思想
大塩平八郎は、陽明学(ようめいがく)という儒学の一派を学び、「民の苦しみを救うのが真の正義」という思想に強く影響を受けていました。正義の実現のためには、行動を起こすべきだと信じていたのです。
事件の経過
- 1837年2月19日(旧暦)、大塩は門弟らおよそ300人とともに蜂起しました。
- 大坂の町に火を放ち、幕府の腐敗を民衆に訴えかけると同時に、商人の米蔵を襲って食料を分配しようとしました。
- しかし、計画は事前に漏れていたことや、準備不足もあり、わずか半日ほどで鎮圧されました。
- 大塩は逃亡しましたが、数日後に潜伏先で自害(じがい)しました。
結果と影響
- 蜂起は失敗に終わったものの、その目的や思想は多くの人々に強い衝撃を与えました。
- 「元幕府の役人が幕府に反乱を起こす」という前代未聞の出来事だったため、全国に動揺が広がりました。
- 幕府の対応の遅さや無力さが明らかになり、民衆の幕府への信頼はさらに揺らぎました。
- この事件は、のちの「幕末の思想家たち(吉田松陰や西郷隆盛など)」にも影響を与えたとされています。
まとめ
大塩平八郎の乱は、天保の飢饉に苦しむ民衆を救おうとした元奉行所与力・大塩平八郎が、幕府の腐敗と商人の搾取に対して立ち上がった反乱です。彼の行動は「正義のための蜂起」として多くの人々に衝撃を与え、幕府の権威を大きく揺るがしました。乱そのものは短期間で鎮圧されたものの、その理念と影響は後の時代にまで及び、幕末の変革の気運を高める要因の一つとなりました。
天保 11年(1841年)
天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代後期、第12代将軍徳川家慶(とくがわ いえよし)の時代に、老中・水野忠邦(みずの ただくに)が中心となって行った政治改革のことです。期間は主に1841年から1843年ごろまでです。
これは、先の享保の改革(徳川吉宗)や寛政の改革(松平定信)に続く、「三大改革」のひとつとされています。
背景
19世紀前半、幕府の財政は悪化し、全国で飢饉や一揆、打ちこわしが頻発していました。特に天保の大飢饉(1833~1837年)の影響は深刻で、庶民の生活は困窮し、幕府への不満が高まっていました。
これに対応するため、水野忠邦は幕府の力を再建しようと、大規模な改革を断行します。
主な内容
- 倹約令と風紀の引き締め
華美な生活や贅沢を禁止し、庶民に質素な生活を求めました。
遊郭や芝居町の取締りも強化しました(例:江戸の吉原の移転命令)。 - 株仲間の解散
江戸や大阪などで商人が結成していた株仲間(独占的な商業組織)を解散させ、物価の引き下げを狙いました。
しかしこれにより流通が混乱し、逆に経済が悪化する結果となります。 - 人返し令(ひとかえしれい)
都市部に流入していた農民を強制的に農村に戻す命令。
目的は農村の荒廃を防ぐことでしたが、強制的だったため反発も多く効果は限定的でした。 - 上知令(あげちれい)
江戸や大坂周辺の大名領を幕府直轄地にすることで、都市を幕府の直接統治下に置こうとしました。
しかし大名たちの強い反発を受けて中止されました。
結果と評価
天保の改革は、幕府の権威を取り戻すことを目的としていましたが、厳しい政策と強権的な手法が庶民や諸大名、商人からの不満を招き、改革は失敗に終わりました。水野忠邦もわずか2年ほどで老中の地位を辞任しました。
まとめ
- 実施者:水野忠邦
- 目的:幕府の再建、社会秩序の回復
- 内容:倹約、株仲間解散、人返し令、上知令など
- 結果:広く不満を招き、長期的な効果は得られなかった
天保 13年(1843年)
嘉永 6年(1853年)
ペリー来航とは、アメリカ合衆国の海軍提督マシュー・ペリーが、1853年(嘉永6年)に日本に軍艦(黒船)を率いてやって来て、開国(かいこく)を求めた歴史的な出来事です。
この出来事は、鎖国体制をとっていた江戸幕府の外交政策を大きく揺るがし、日本が近代に向かうきっかけとなった重要な転換点です。
背景
- 1. アメリカの目的
アメリカは当時、太平洋を横断する貿易航路の確保や、捕鯨船の補給地として日本に寄港地を設けたいと考えていました。
また、当時の世界は「植民地拡大競争」の時代であり、欧米諸国がアジアに進出している中で、日本との通商も視野に入れていたのです。 - 日本の状況
江戸幕府は200年以上にわたり鎖国政策(主に長崎の出島だけでオランダと中国に限って貿易)をとっていました。
しかし、国内では天保の飢饉や一揆、幕府の財政難などにより、政治的に不安定な時期を迎えていました。
来航の経過
- 1853年6月3日(旧暦)、ペリーは蒸気船2隻と帆船2隻の計4隻(通称「黒船」)を率いて、浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来航しました。
- 江戸湾に突然現れた巨大な軍艦と、その近代兵器に、幕府や庶民は大きな衝撃を受けました。
- ペリーは、アメリカ大統領の親書を将軍に渡すよう強く求め、幕府はやむなく受け取りました。
- その後、ペリーは「翌年また来る」と言い残していったん帰国します。
日米和親条約の締結
- 翌年の1854年(嘉永7年)、ペリーは再び艦隊を率いて再来日し、幕府と交渉を重ねました。
- 結果、日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)が結ばれ、日本は下田(静岡)と函館(北海道)の2港を開港し、アメリカ船に水や食料を提供することを認めました。
- これにより、鎖国体制は事実上終わりを迎え、日本は開国することになります。
社会への影響
ペリー来航によって、江戸幕府は外交的対応を迫られ、国内の意見は大きく分かれました。
「開国すべきだ」という立場と、「外国を排除すべきだ(攘夷)」という立場が対立します。
この対立は、のちの幕末の混乱や明治維新へとつながっていきます。
また、欧米列強との不平等条約が次々と結ばれ、日本にとっては試練の時代が始まりました。
まとめ
ペリー来航は、アメリカ海軍のペリー提督が黒船を率いて日本に来航し、開国と通商を求めた事件です。これにより、日本は200年以上続けてきた鎖国政策を見直さざるを得なくなり、翌年の日米和親条約の締結によって、事実上開国することになりました。来航の衝撃は国内に大きな混乱をもたらし、開国か攘夷かという議論が巻き起こり、やがて幕末の動乱、そして明治維新へとつながる道を開くことになります。
嘉永 7年(1854年)
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)とは、1854年(安政元年)に日本とアメリカ合衆国との間で結ばれた最初の公式な条約です。この条約は、江戸幕府が鎖国政策を緩和し、アメリカと外交関係を築く第一歩となった重要な外交文書です。
背景
19世紀半ば、日本は200年以上にわたり鎖国政策を取っていましたが、西欧列強は日本の開国を強く求めていました。1853年、アメリカのマシュー・ペリー提督が黒船(軍艦)を率いて浦賀に来航し、日本に開国を求めました。これにより幕府は外交的な対応を迫られ、翌1854年、再び来日したペリーとの間でこの条約が締結されました。
条約の主な内容
- 下田と函館の開港:アメリカ船に限り、燃料や食料の補給、遭難時の救助などのために、下田と函館の港を開く。
- 漂流民の保護と送還:アメリカの船や国民が日本で遭難した場合、日本はその救助・保護・送還に協力する。
- アメリカ領事の駐在:アメリカは日本に領事を駐在させることができる(後に下田にタウンゼント・ハリスが着任)。
意義と影響
この条約は、日本が西洋列強との正式な外交関係を始めた最初のステップであり、後の日米修好通商条約(1858年)へとつながる重要な布石となりました。また、他の国々(イギリス、ロシア、オランダなど)も同様の条約を結び、日本の開国は決定的なものとなりました。
10月15日
11月3日
11月4日
安政 元年(1854年)
12月
12月21日
日付は旧暦換算。新暦では1855年2月7日。
安政 2年(1855年)
1月11日
米国大使アダムス中佐と日本側応接掛井戸対島守等が参加。
安政 4年(1857年)
安政 5年(1858年)
日米修好通商条約は、1858年(安政5年)に日本とアメリカ合衆国との間で結ばれた条約で、日本が本格的に国際貿易を開始するきっかけとなった極めて重要な外交文書です。
この条約は、アメリカの初代駐日総領事タウンゼント・ハリスと、江戸幕府との交渉の末に結ばれました。
背景
1854年に結ばれた日米和親条約により、日本はアメリカと外交関係を持つようになりましたが、その内容は限定的なもので、貿易の自由は認められていませんでした。
その後、タウンゼント・ハリスが下田に着任し、数年にわたる交渉を行った結果、幕府は1858年により広範な通商を認めるこの修好通商条約を締結するに至ります。
この時期、清(中国)がアロー戦争でイギリス・フランスと戦い不利になっていたこともあり、日本は「開国やむなし」と判断しました。
主な内容
- 神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)・新潟・兵庫(神戸)の開港
外国商人がこれらの港で自由に貿易できるようになった。 - 居留地の設置
外国人が一定の区域内(居留地)に住み、商売を行うことが認められた。 - 関税自主権の欠如
関税率は日本ではなく、外国との協定で決められた。つまり、日本は自国の税制を自由に決められなかった。 - 治外法権(ちがいほうけん)の承認
日本国内にいても、外国人は日本の法律ではなく、自国の法律に従うこととされた(領事裁判権)。
意義と影響
この条約は、日本が西洋列強と本格的な通商関係を持つスタートとなった一方で、不平等条約として国内から大きな反発を受けました。特に、関税自主権がないことや治外法権が認められたことは、国家主権の侵害とみなされ、明治政府によって後に改正の対象となります。
一方で、外国との貿易が始まったことにより、経済や文化に西洋の影響が急速に広がり、日本の近代化のきっかけとなったことも事実です。
まとめ
日米修好通商条約は、日本が鎖国体制から脱し、近代国家として国際社会に踏み出す第一歩となった条約です。ただし、その内容は不平等なものであり、後の日本外交の大きな課題ともなりました。
安政の大獄(あんせいのたいごく)とは、江戸時代末期の1858年から1859年(安政5年~安政6年)にかけて、大老・井伊直弼(いいなおすけ)によって行われた政治的弾圧のことです。
背景
この時代、日本はアメリカをはじめとする欧米諸国からの開国要求を受けており、幕府はその対応に迫られていました。1858年、井伊直弼はアメリカとの間に日米修好通商条約を天皇の許可を得ないまま締結します。これに対して、朝廷や尊王攘夷(そんのうじょうい)を主張する勢力、公家や一部の大名たちは激しく反発しました。
安政の大獄の内容
井伊直弼は、幕府の権威を守るために反対派を一掃しようとし、以下のような人々を処罰しました。
- 吉田松陰(長州藩士):思想活動が危険視され、死刑。
- 橋本左内(越前藩士):開明派の若手藩士として注目されていたが、死刑。
- 梅田雲浜、頼三樹三郎、公家の近衛忠煕など:公武合体や尊皇攘夷を唱える者たちが投獄・処刑・蟄居などの処分を受けました。
最終的に処罰された人は100人以上にものぼるとされています。
結果と影響
安政の大獄によって一時的に幕府の統制力は強まりますが、これにより井伊直弼への反感は高まり、1860年に起こる桜田門外の変で井伊は暗殺されてしまいます。
この事件は、幕府の権威が揺らぎ、尊王攘夷運動や倒幕運動が広がる一因となり、明治維新へとつながる大きな転機となりました。
安政 7年(1860年)
3月3日
桜田門外の変は、1860年(安政7年)3月3日に江戸城の桜田門外で起こった、大老・井伊直弼(いい なおすけ)の暗殺事件です。この事件は江戸時代末期の日本において、大きな政治的転機となりました。
背景
当時の日本は、欧米列強の圧力により開国を迫られ、幕府は外交政策をめぐって国内から強い反発を受けていました。
特に、井伊直弼は日米修好通商条約を天皇の許可なく締結し、さらにその反対派を厳しく弾圧する**「安政の大獄」**を行いました。これにより、尊王攘夷(天皇を敬い、外国を排斥する)思想を持つ志士たちの憎しみを買うことになります。
事件の内容
1860年3月3日、雪の降る中、井伊直弼が登城しようと江戸城の桜田門に向かっていたところを、水戸藩と薩摩藩の脱藩志士たち18人が襲撃しました。
彼らは井伊の駕籠を取り囲み、短時間のうちに井伊直弼を殺害。この時、井伊は刀で斬られ、銃で撃たれたとも伝えられています。
影響とその後
- 幕府の権威低下:大老が白昼堂々、江戸城の門前で暗殺されるという前代未聞の事件は、幕府の弱体化を国内外に示すことになりました。
- 尊王攘夷運動の活発化:これを機に、幕府に反対する攘夷派が勢いづき、のちの倒幕運動へとつながっていきます。
- 政治の転換点:幕府はこれをきっかけに、公武合体(朝廷と幕府の協調)などの新たな政治方針を模索し始めます。
桜田門外の変は、幕末の混乱を象徴する重大事件のひとつであり、明治維新へと向かう歴史の流れを加速させた事件といえるでしょう。
文久 2年(1862年)
1月15日
坂下門外の変は、1862年(文久2年)1月15日に江戸城の坂下門外で、**老中・安藤信正(あんどう のぶまさ)**が襲撃された事件です。
この事件も、幕末の政治混乱と尊王攘夷運動の激化を象徴する重要な出来事の一つです。
背景
当時、日本は開国後の混乱期にあり、外国との関係や天皇との関係をめぐって政治方針が揺れていました。老中・安藤信正は、朝廷と幕府の協調をはかる「公武合体(こうぶがったい)政策」を推進し、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を14代将軍・徳川家茂に嫁がせるという政略結婚を実現しました。
この動きは、尊王攘夷を唱える急進派にとっては裏切りに映り、強い反発を招くことになります。
事件の内容
1862年1月15日、安藤信正が江戸城に登城する途中、水戸藩の浪士4人によって坂下門外で襲撃され、重傷を負いました。
彼は命を取りとめたものの、この襲撃は幕府内外に大きな衝撃を与えました。
影響とその後
- 公武合体政策の後退:安藤の失脚により、公武合体の勢いは弱まり、幕府の政治力はさらに低下。
- 尊王攘夷派の勢力拡大:過激な手段による主張が目立つようになり、幕末の政局はより混迷を深めていきます。
- 幕府の威信低下:わずか2年前の「桜田門外の変」に続き、またも幕閣が城門前で襲撃されたことにより、幕府の治安能力・統制力に大きな疑問が持たれました。
まとめ
坂下門外の変は、幕府と朝廷の関係をどうするかをめぐる対立が激化し、それがテロという形で表面化した事件でした。幕末の動乱はこのような事件を通じてさらに深まり、やがて明治維新へとつながっていくのです。
8月21日
生麦事件は、1862年(文久2年)8月21日、現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦村(当時)で発生した、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件です。
この事件は、幕末の日本が外国との関係において抱える緊張や価値観の衝突を象徴するものであり、後に日本とイギリスの間で外交問題に発展しました。
事件の背景
当時、日本は1859年の横浜開港以来、多くの外国人が滞在・往来するようになっていました。しかし、武士の間では「不逞外国人を斬っても構わない」というような過激な尊王攘夷思想が根強く残っていました。
事件当日、薩摩藩の行列(大名行列)が川崎から横浜へ向かって移動中、イギリス人の商人4人が馬に乗ってその道を通りかかりました。
そのうちの1人、チャールズ・リチャードソンが、薩摩藩の行列の前を無遠慮に横切ったと判断され、護衛の藩士たちに刀で切りつけられ、死亡。他のイギリス人も重傷を負いました。
事件の影響
この事件は国際問題となり、イギリス政府は強く抗議しました。
イギリスの要求:
- 被害者への賠償金
- 犯人の処罰
- 薩摩藩への謝罪と賠償
幕府はイギリスとの戦争を避けるため、10万ポンドの賠償金を支払いましたが、薩摩藩は犯人の引き渡しも謝罪も拒否。
薩英戦争へ
この態度に対してイギリスは強硬策に出て、1863年に薩英戦争(薩摩藩とイギリスの軍事衝突)が発生します。
しかし、この戦争を経て、薩摩とイギリスはむしろ友好関係を築く契機となり、後に薩摩藩はイギリスとの協力を通じて西洋の技術や知識を取り入れ、明治維新の中心的存在となっていきます。
まとめ
生麦事件は、日本の武士的価値観(行列無礼=即斬)と、西洋の近代的国際法や人権意識との衝突を象徴した事件でした。
それがやがて戦争に発展し、外交と近代化の大きな転換点となった点でも非常に重要です。
文久 3年(1863年)
下関事件とは、1863年(文久3年)から1864年(元治元年)にかけて、長州藩(山口県)が外国船を砲撃したことで始まった、日本と欧米列強との間で起こった武力衝突事件です。
特に、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4か国が連合して報復攻撃を行ったことから、四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたい しものせき ほうげきじけん)とも呼ばれます。
背景
当時、尊王攘夷思想が全国に広がっており、長州藩はその急先鋒(きゅうせんぽう)でした。
1863年、孝明天皇の「攘夷の勅命(外国を追い払えという命令)」を受けた長州藩は、関門海峡(下関海峡)を通る外国船に対して無差別攻撃を開始します。
このとき攻撃されたのは、アメリカの商船「ペンブローク号」やフランス船などで、いずれも民間または非軍事船でした。
欧米列強の反撃
外国船に対する長州藩の攻撃は、欧米諸国にとって明白な「敵対行為」とされました。
その結果、翌年の1864年(元治元年)9月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4か国が軍艦を動員して下関を一斉に砲撃・占領しました(四国艦隊による報復攻撃)。
長州藩の砲台は壊滅し、藩は降伏。最終的には、幕府が間に立ち、賠償金300万ドル(当時としては非常に高額)を支払うことで事件は終息に向かいます。
影響と意義
- 攘夷の限界を実感:この事件を通じて、長州藩は「武力による攘夷は不可能」と痛感し、以後、欧米の技術や制度を積極的に学ぶ姿勢に転換していきます。
- 明治維新の布石:敗北後の長州藩は、急速に近代化と改革を進め、後の倒幕・維新運動の中心勢力へと成長します。
- 外交と軍事の現実:日本は列強の軍事力・外交力の差を認識し、「開国」と「近代化」が不可避であることが明確になります。
まとめ
下関事件は、攘夷運動の実践とその失敗を示す代表的な事件です。
これによって、日本は外国と対等に渡り合うには、単なる精神論ではなく、技術力と国力を備える必要があるという現実に直面することになりました。
1月15日
8月
薩英戦争とは、1863年(文久3年)8月に発生した、薩摩藩とイギリスとの間の武力衝突です。
この戦争は、前年に起きた「生麦事件(1862年)」に対する報復として起こりましたが、結果的には薩摩とイギリスが和解し、友好関係を築く契機となった重要な出来事です。
背景:生麦事件の報復
1862年、薩摩藩の行列を横切ったイギリス人リチャードソンらが、藩士に斬られて死亡・負傷した「生麦事件」が発生。
イギリスはこれを「外交上の侮辱」として、以下の要求を日本側に突きつけます。
- 犯人の引き渡し
- 薩摩藩からの正式な謝罪
- 賠償金の支払い
幕府は賠償金(10万ポンド)を支払いましたが、薩摩藩は謝罪も犯人引き渡しも拒否。これによりイギリスは、武力行使に踏み切ります。
戦争の経過
1863年8月15日、イギリス海軍の艦隊(7隻)は鹿児島湾に侵入し、薩摩藩の船を拿捕・焼却。
これに対して薩摩側も反撃し、双方が激しく砲撃戦を展開します。
- 薩摩藩は沿岸の砲台から砲撃を加え、イギリス艦の一部に損傷を与えました。
- イギリス艦隊は、薩摩の城下町や砲台を砲撃し、大きな被害を与えました。
戦闘は3日間ほど続きましたが、決定的な勝敗はつかず、最終的には停戦交渉が行われました。
戦後の和解と影響
戦後、薩摩藩はイギリスと正式に交渉を行い、賠償金を支払い、外交関係を改善する方向へ進みます。
これを契機に、薩摩藩はイギリスから武器や軍艦、技術、知識を積極的に導入し、急速に近代化を進めていきました。
また、イギリス側も薩摩の軍事力と政治意識に一目置き、友好的な関係が築かれるようになります。
意義と評価
- 攘夷から開国・近代化への大きな転機
- 日本の地方藩が欧米列強と直接交渉・戦闘・和解した珍しい例
- 後の「薩英同盟的関係」の始まりとなり、薩摩は明治維新で主導的役割を果たす
まとめ
薩英戦争は、単なる局地戦ではなく、幕末の日本が国際社会と本格的に関わり始める象徴的な事件でした。
武力衝突を経て、薩摩は攘夷から現実路線へと大きく方針転換し、明治維新に向けた重要な一歩を踏み出したのです。
※主な参考資料
- 各地、各施設などのパンフレットやWEBサイト(個別に記載)
- 史料にみる日本の近代(国立国会図書館WEBサイト)
- 戦後70年へ-日本の戦争と戦後の歩み-年表に関する最新ニュース(朝日新聞WEBサイト)
- ウィキペディア
データの表示順位
各データは以下の順で並んでいます。
- 時代1(大分類:古代、中世など)
- 時代2(小分類:平安時代、江戸時代など)
- 年(元号による分類)
- 日本の歴史(教科書などに出てくる歴史の大きな事象)
- 月
- 日
- 都道府県
- 地域
- 市区町村
- 場所
軸となる”日本の歴史”部分は、年ごとのデータの中で優先的に最初の方に表示するようにしました。
