
「この時代には何があったんだろう?」、「この時期にこの地方ではどういうことが起きていたんだろう?」。
そういった些細な疑問を解決したくてこのページを作ってみました。
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- こういう人たちに見てほしい
- 歴史データ募集中
歴史データ
原始時代
弥生時代
110年
文言解説
- 日本武尊(ヤマトタケル)
第12代景行天皇の皇子であり、日本書紀や古事記に登場する伝説的な英雄 - 東夷征伐(とういせいばつ)
蝦夷などを平定する目的で行われた東征 - 奇瑞(きずい)
なにがしかの吉兆。 - 創祀(そうし)
神仏や祖霊などを初めてまつり始めたこと、または初めてまつった場所
古代
古墳時代
552年
555年
飛鳥時代
603年
冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、603年に聖徳太子(しょうとくたいし)が制定した、
才能や功績に応じて位(地位)を与える制度です。
日本で初めての官僚登用制度のひとつとして知られています。
背景
当時の日本(飛鳥時代)は、氏(うじ)や家柄によって地位が決まる氏姓制度が中心でした。
しかしそれでは優秀な人材を公平に登用できないため、聖徳太子は能力・努力を重視する制度として冠位十二階を導入しました。
これは、中国・隋(ずい)の制度を手本にしたものと考えられています。
制度の内容
- 位は徳・仁・礼・信・義・智の6つの徳目からなり、
それぞれに大(だい)・小(しょう)がついて、合計12階位。 - 位ごとに冠の色が異なり、身分の高低が一目でわかる仕組み。
- 家柄に関係なく、功績に応じて昇進が可能。
目的と意義
- 有能な人材を登用するための基盤をつくる。
- 天皇中心の中央集権的な政治体制への一歩。
- のちの律令制度や官位制の原型となる重要な制度。
歴史的エピソード
- 初めてこの制度で昇進した人物として知られるのが、忠臣小野妹子(おののいもこ)など。
冠位十二階は、家柄にとらわれず実力で登用するという近代的な考え方をもつ制度であり、
日本の官僚制度の始まりを示す画期的な出来事です。
604年
十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)は、604年に聖徳太子(しょうとくたいし)によって作られた、日本で最初の道徳・政治の基本方針を示した文書です。
現在の「憲法」とは違い、これは役人たちが守るべき心得や心構えをまとめたものです。
背景と目的
当時の日本では、豪族どうしの争いや朝廷内の混乱がありました。
聖徳太子は、仏教や儒教などの考えを取り入れ、天皇中心の安定した政治を目指しました。
主な内容(十七の条文)
十七条憲法には、次のような考えが書かれています:
- 和をもって貴しとなす
人々が仲良く協力することが大切だ、という意味。 - 天皇の命令に従うこと
天皇を中心とする政治体制を重視。 - 仏教を尊び、礼を大切にすること
仏教の教えや道徳を政治に生かす。
…など、全部で17の条文があります。
意義
- 日本で初めての本格的な政治理念の文書とされる。
- 後の律令制度の精神的な土台となった。
- 「法」ではなく「道徳・思想」に重きを置いた内容。
十七条憲法は、聖徳太子の理想とする国のかたちを示したものであり、古代日本の政治と道徳を理解するうえで非常に大切な文書です。
607年
遣隋使(けんずいし)とは、飛鳥時代の日本が中国(隋)に送った公式の使節団のことです。
最初の派遣は600年で、特に有名なのは607年に聖徳太子が送った小野妹子(おののいもこ)によるものです。
目的
- 隋の進んだ文化や制度を学ぶため
- 対等な国として外交関係を築くため
- 国内の政治や制度を整える参考とするため
有名なエピソード:「日出づる処の天子」
607年、小野妹子が持っていった国書にはこう書かれていました:
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す……」
これは、「日本(東の国)の天子が、中国(西の国)の天子に手紙を送る」という意味で、日本が対等な立場を主張した言葉として知られています。
この言葉に隋の皇帝・煬帝(ようだい)は最初驚きましたが、日本の使節を受け入れ、交流が始まりました。
意義
- 中国(隋)の制度や文化、仏教、文字などを学ぶ大きなきっかけとなった。
- 日本が対外的に自立した国家としてふるまい始めた証でもある。
- のちの律令制度や仏教の発展にも大きな影響を与えた。
その後、隋が滅びると、今度は唐(とう)に向けて遣唐使が派遣されるようになります。
630年
遣唐使(けんとうし)とは、7世紀から9世紀にかけて、日本が中国の唐(とう)に送った公式の使節団のことです。
目的は、唐の先進的な文化・制度・仏教・技術などを学ぶことでした。
いつからいつまで?
最初の派遣:630年(舒明天皇の時代、犬上御田鍬)
最後の派遣:894年(菅原道真の建議で中止)
合計で十数回派遣されました。
目的
- 唐の先進文化や政治制度を取り入れるため
→ 律令制度、中央集権体制、都の作り方などを学んだ。 - 国際的な交流と日本の地位確立のため
- 仏教や儒教の経典・思想を取り入れるため
有名な人物
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
唐に渡り、そのまま唐の官僚として活躍。帰国できず、唐で亡くなる。
吉備真備(きびのまきび)・玄昉(げんぼう)
日本に帰国後、学問や仏教の発展に大きく貢献。
最澄(さいちょう)・空海(くうかい)
804年の遣唐使で唐に渡り、天台宗・真言宗を日本に伝えた。
意義
- 日本の文化・政治・宗教の発展に大きな影響
- 平城京・平安京の都の設計や律令制度の整備に役立った
- 仏教の本格的な広まりと日本的な仏教文化の基礎を築いた
遣唐使の中止
894年、唐が衰退し始めたため、菅原道真(すがわらのみちざね)が派遣中止を提案。以後、遣唐使は行われなくなりました。
645年
大化の改新は、645年に始まった、日本で最初の本格的な政治改革です。
この改革は、**中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)**が中心となって行いました。
蘇我氏の滅亡
当時、大きな力を持っていた豪族の**蘇我氏(そがし)が政治を牛耳っていました。
中大兄皇子たちは、645年に蘇我蝦夷(そがのえみし)とその子入鹿(いるか)**を倒して、蘇我氏の政治を終わらせました(乙巳の変)。
政治改革のスタート
蘇我氏を倒した後、天皇を中心とする新しい国づくりを目指し、次のような改革が行われました。
主な改革内容(「改新の詔」646年)
- 公地公民(こうちこうみん)
土地や人々は豪族のものではなく、すべて天皇のものとする。 - 地方のしくみを整える
国・郡・里という区分を作り、中央から役人を送って統治。 - 戸籍や税の制度をつくる
人々を記録して、税や労働の負担を正しく管理。
意義・影響
天皇を中心とした中央集権国家への第一歩となりました。
この改革が、後の律令国家(ルールに基づく政治体制)につながります。
6月12日
乙巳の変(いっしのへん)とは、645年に起きた、蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺された政変のことです。
この事件をきっかけに、日本の政治のしくみが大きく変わり、大化の改新が始まりました。
背景
当時の日本では、天皇よりも蘇我氏(特に蘇我蝦夷・入鹿親子)が強い力を持ち、政治をほぼ支配していました。
このままでは天皇中心の国づくりはできないと考えた中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我氏の打倒を決意します。
事件の内容
645年、朝廷の場で、中大兄皇子が計画を実行。
中臣鎌足らと協力し、蘇我入鹿を暗殺しました。これが乙巳の変です。
その後、父の蘇我蝦夷も自殺し、**蘇我本宗家(ほんそうけ)**は滅亡しました。
意義
- 蘇我氏の専横を終わらせ、天皇中心の政治を目指す動きが始まった。
- 大化の改新という大きな改革のスタート地点。
- 日本の歴史で初めて、具体的な年号「大化」が使われました。
乙巳の変は、日本の古代政治の大転換点であり、天皇を中心とした国家体制へと向かう最初の一歩でした。
大化 2年(646年)
改新の詔は、646年に出された、日本で最初の本格的な政治改革の宣言です。**中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)**が中心となって作りました。
主な内容(4つのポイント)
- 土地と人は国のもの(公地公民)
豪族が土地や人を勝手に持つのをやめさせた。 - 国をきちんと分けて管理
国・郡・里という単位に分けて、中央から役人を派遣。 - 戸籍と税のしくみを作る
国民を把握し、税をしっかり集めるようにした。 - 税は天皇のもとへ
各地でバラバラだった税を中央に集めるようにした。
なぜ大事なの?
この詔によって、天皇中心の国づくりが始まりました。それまでの豪族中心の政治から、**律令国家(ルールに基づく国)**へと進むきっかけになった、とても大切な出来事です。
663年
白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)は、663年に現在の韓国・白村江(はくすきのえ)付近で起きた、日本・百済(くだら)連合軍 vs 唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍の戦いです。
背景
朝鮮半島では、三国(高句麗・百済・新羅)の争いが続いていました。
660年、百済が唐・新羅の連合軍に滅ぼされ、日本は親しかった百済を助けるために軍を派遣しました。
戦いの経過
- 663年、日本は百済の復興を支援し、大軍を朝鮮半島に送ります。
- 白村江(現在の韓国・錦江の河口)で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍が激突。
- 日本軍は海戦で大敗し、百済の再興は失敗しました。
結果と影響
- 日本は朝鮮半島から撤退
以後、直接的な朝鮮への関与を控えるようになる。 - 対唐・新羅への警戒感が高まる
→ 九州に防人(さきもり)を置く、防衛体制を強化。 - 中央集権体制の強化へ
→ 天皇を中心に国内をまとめるため、律令制度の整備が進む。
歴史的意義
白村江の戦いは、日本が初めて海外で本格的に戦った戦争の一つであり、その敗北は内政改革(大化の改新の加速)や防衛体制の整備につながる大きな転機となりました。
672年
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇(当時は大海人皇子)と大友皇子との間で起こった、日本の古代史における最大規模の内乱の一つです。西暦672年に発生し、飛鳥時代における政権争いとして非常に重要な出来事です。
背景
この乱の原因は、天智天皇(中大兄皇子)の死後、次の天皇の座を巡る後継者争いにありました。天智天皇は自らの子である大友皇子に皇位を譲ろうとしていましたが、弟の大海人皇子にも皇位継承の可能性があるとみなされていました。
大海人皇子は表向きは出家し、吉野に退いて政治から離れたように見せていましたが、密かに挙兵の準備を進めていました。
壬申の乱の経過
672年6月、大海人皇子は近江朝(大友皇子の政権)に対して挙兵し、美濃・東国の豪族らの支持を得て勢力を拡大しました。一方、大友皇子側も迎え撃ちますが、戦局は大海人側に有利に展開します。
最終的に、大友皇子は敗れて自害し、大海人皇子が勝利を収めました。
結果と影響
この戦いに勝利した大海人皇子は、**飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)**で即位し、天武天皇となりました。天武天皇はその後、中央集権的な律令国家体制の基礎を築き、日本の古代国家の確立に大きな影響を与えました。
壬申の乱は、単なる権力争いにとどまらず、その後の日本の政治制度や天皇家の継承制度にも大きな影響を与えた、歴史上極めて重要な事件です。
687年
藤原京遷都(ふじわらきょうせんと)とは、694年に持統天皇(じとうてんのう)が、それまでの都から藤原京(奈良県橿原市)に遷(うつ)した出来事です。
藤原京は、日本で初めて本格的な都城(とじょう)制にもとづいて造られた都です。
藤原京の特徴
- 碁盤の目のように道が整備された、中国・唐の都(長安)を手本にした計画都市。
- 天皇の宮殿(藤原宮)を中心に、政治や宗教の施設が配置された。
- 東西約5.3km、南北約4.8kmという当時としては非常に大きな規模。
遷都の目的
- 天皇中心の中央集権国家を支える新しい政治の拠点を作るため。
- 大化の改新や律令制度の実施を支える都市づくりの一環。
- 仏教や儒教を取り入れた新しい国家体制の象徴とするため。
歴史的意義
- 藤原京は、日本最初の本格的な都城制の首都であり、その後の平城京(710年)や平安京(794年)に続く都づくりの始まりとなった。
- 天皇中心の律令国家体制を実現するための重要な拠点だった。
その後の流れ
藤原京は約16年間使われ、710年に元明天皇が平城京へ遷都し、藤原京の役目は終わりました。
大宝 元年(701年)
大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年に制定された、日本で初めて本格的に整えられた律令(りつりょう)制度の完成形です。
これは、天皇を中心とした中央集権国家を支えるための法律と行政の仕組みを定めたもので、日本の古代国家の基礎を築いた重要な出来事です。
律令とは?
「律(りつ)」は、刑罰に関する法律
「令(りょう)」は、政治や行政の決まり
つまり、律令とは「国を治めるための法律とルールのセット」です。
制定に関わった人物
文武天皇(もんむてんのう)の時代に制定
中心となったのは、学者であり政治家の 刑部親王(おさかべしんのう) と 藤原不比等(ふじわらのふひと)
大宝律令の内容(主な特徴)
- 中央集権体制の確立
地方も天皇の命令で動く体制を作った。 - 官職制度の整備
「太政官(だじょうかん)」や「神祇官(じんぎかん)」など、役所のしくみが整えられた。 - 税や土地制度の明文化
班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)などの制度で、土地や税をきちんと管理した。 - 戸籍・計帳の作成
人々の情報を把握し、労働や税の負担を公平にした。
意義・影響
日本の律令国家が完成し、中国・唐の制度をモデルにした統治が可能に。
後の時代(奈良時代・平安時代)の政治の基本となる。
「大宝律令」は、後の「養老律令(ようろうりつりょう)」へと引き継がれていきます。
和銅 3年(710年)
平城京遷都とは、710年に元明天皇(げんめいてんのう)が、それまでの都であった藤原京(ふじわらきょう)から、現在の奈良市にあたる場所に新しい都「平城京」を移した出来事です。
この遷都によって、奈良時代(710年~794年)が始まりました。
平城京の特徴
- 中国・唐の都「長安」をモデルにした、碁盤の目のような整然とした都市。
- 都の中心には「平城宮(へいじょうきゅう)」という天皇の宮殿があり、政治の中心となった。
- 道路や役所、寺院が整備され、本格的な律令国家の首都として発展。
遷都の目的
- 律令制度にふさわしい中央集権的な政治の中心地を築くため。
- 藤原京の不便さを解消し、新しい時代に合った都を作るため。
- 唐の影響を受けた都城制を本格的に導入するため。
文化・宗教の発展
- 平城京には多くの寺院が建てられ、仏教文化が大きく発展。
- 有名な寺院:東大寺・興福寺・薬師寺など。
- 正倉院(しょうそういん)には当時の貴重な宝物が今も残る。
その後の流れ
平城京は約80年間、奈良時代の政治・文化の中心となり、
その後794年に平安京(京都)へ遷都されて、奈良時代が終わります。
歴史的意義
- 日本で初めて、長期間にわたって機能した本格的な都。
- 律令国家の完成と仏教文化の隆盛を支えた中心地。
奈良時代
養老 2年(718年)
養老律令は、718年(養老2年)に編纂された、日本の古代律令国家を支える法体系の一つです。
これは、701年に制定された大宝律令をもとに、より実情に合った形に整え直したものです。
編纂に関わった人物
中心となって編纂を行ったのは、藤原不比等(ふじわらのふひと)です。
彼は、大宝律令の制定にも関わった有力な政治家であり、律令政治の整備に大きな役割を果たしました。
養老律令の特徴
- 内容は大宝律令とほぼ同じですが、一部が実際の政治や社会に合わせて修正・整備されています。
- 「律」6巻、「令」11巻から構成されています。
実際に使われたのはいつ?
養老律令が実際に施行されたのは757年(天平宝字元年)で、藤原不比等の死後、孫の藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)によって公布されました。
その後、この養老律令は長く用いられ、奈良時代〜平安時代の政治の基本法典として機能しました。
意義
- 日本の律令制度の最終的な完成形としての意味を持ちます。
- 平安時代以降も、「格式(きゃくしき)」などと組み合わせて活用され、律令制の土台を長く支えました。
養老 7年(723年)
三世一身の法(さんぜいっしんのほう)は、723年(養老7年)に出された法律で、開墾(かいこん)を促すために土地の私有を一部認めた法令です。
元正天皇(げんしょうてんのう)の時代に制定されました。
背景
当時の日本では、班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)に基づき、土地は国家のものとされ、人々には一時的に耕す権利が与えられていました(公地公民制)。
しかし、農民が自分の努力で開墾しても、その土地をすぐに国へ返さねばならず、自発的な開墾が進まないという問題が出てきました。
法の内容
「三世一身の法」では、以下のように定められました:
- 新しく開墾した土地は、その人と子・孫の「三世代」にわたって私有を認める。
- ただし、「三代の命が終われば(死ねば)」土地は国に返す。
- 本人がすでに持っていた田を開墾した場合は、生きている間(終身)だけ所有可能。
目的
- 開墾をすすめて耕地を増やすこと
- 税収の安定や国家財政の強化
限界とその後
- 「三世一身」では所有期間が限られていたため、開墾はあまり進まず。
- より強力な対策として、後に墾田永年私財法(743年)が制定され、土地の永久私有が認められるようになります。
意義
- 公地公民制のゆらぎの始まりを示す重要な法律。
- 律令制度の中で、現実との調整が必要になっていたことを示す。
神亀 元年(724年)
神亀 6年(729年)
天平 5年(733年)
天平 13年(741年)
国分寺・国分尼寺建立の詔(こんりゅうのみことのり)は、741年(天平13年)に聖武天皇(しょうむてんのう)が出した命令です。
これは、全国に国ごとのお寺(国分寺)と尼寺(国分尼寺)を建てるよう命じたもので、仏教の力で国を安定させようとする政策でした。
背景
この頃、日本では天然痘(てんねんとう)という疫病の流行や、飢饉(ききん)、反乱などが相次ぎ、国が大きく乱れていました。
そこで聖武天皇は、「仏教の力で国を守ろう」と考え、仏教を国家の中心に据える方針をとりました。
詔の内容
- すべての国(今でいう県)に1つの国分寺と国分尼寺を建てる
→ 国分寺:僧侶のための寺
→ 国分尼寺:尼僧のための寺 - 寺には写経や読経を行わせ、仏の教えによって国を守る「鎮護国家(ちんごこっか)」の思想を実現
有名な国分寺
- 東大寺(とうだいじ)(現在の奈良県)
→ 全国の国分寺の中心とされた大寺院で、後に大仏建立にもつながります。
意義
- 仏教が国家の政治や社会と深く関わるようになったことを示す出来事
- 地方の統治や文化の発展にも大きな影響
- 律令国家における宗教政策の代表例
国分寺・国分尼寺の建立は、日本の仏教史と国家の結びつきを語るうえで非常に重要な出来事です。
天平 15年(743年)
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)は、743年(天平15年)に出された法律で、新しく開墾した土地(墾田)を永久に個人の所有としてよいと定めた法令です。
聖武天皇(しょうむてんのう)の時代に制定されました。
背景
それまでの律令制度では、「公地公民制(こうちこうみんせい)」により、土地はすべて国のもので、人民に一定期間貸し出す仕組みでした。
しかし、人口が増えず、田畑を与える土地も不足し、税収も減っていたため、国家はもっと多くの人に開墾をしてもらい、耕地を広げたいと考えていました。
以前の「三世一身の法(723年)」では所有期間が限られていたため、開墾はあまり進みませんでした。
法の内容
- 新しく開墾した土地は、永久に私有してよい(=国に返さなくてよい)
- 身分に応じて所有できる広さに制限があったが、貴族や寺社は広大な土地を取得可能になった
目的
- 耕地面積を増やし、税収や食料の安定をはかるため
- 開墾を積極的に進めさせるためのインセンティブ(やる気を出させる仕組み)
意義と影響
- 公地公民制が事実上くずれ始めた大きな転機
- この法律をきっかけに、貴族や寺社が私有地=荘園(しょうえん)を広げていった
- のちの中世の荘園制度や、武士の台頭にもつながっていく
天平感宝 元年(749年)
※主な参考資料
- 各地、各施設などのパンフレットやWEBサイト(個別に記載)
- 史料にみる日本の近代(国立国会図書館WEBサイト)
- 戦後70年へ-日本の戦争と戦後の歩み-年表に関する最新ニュース(朝日新聞WEBサイト)
- ウィキペディア
データの表示順位
各データは以下の順で並んでいます。
- 時代1(大分類:古代、中世など)
- 時代2(小分類:平安時代、江戸時代など)
- 年(元号による分類)
- 日本の歴史(教科書などに出てくる歴史の大きな事象)
- 月
- 日
- 都道府県
- 地域
- 市区町村
- 場所
軸となる”日本の歴史”部分は、年ごとのデータの中で優先的に最初の方に表示するようにしました。
